4 越智・瀬又両村と野田村等二四カ村の争論

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 安永三年(一七七四)に起こった争いで越智村、瀬又村の主張は次のようなものである。
 土気往還並木の南側一、〇八〇間は越智村、八一〇間は瀬又村のものと思っていたところ、野田村ほか二三カ村側では、自分たちの秣場内だと申したてているということである。
 二四カ村とは、野田村・北生実村・南生実村・浜野村・村田村・有吉村・小花輪村・茂呂村・中西村・小金沢村・大金沢村・富岡村・落井村・刈田子村・谷津村・駒崎村・古市場村・上総国古市場村・曽我野村・泉水村・今井村・大森村・生実郷・赤井村である。
 そしてこの二四カ村側では、宝暦十二年、明和六年の差出し絵図に、往還左右とも秣場二四カ村入会野とあり、越智・瀬又両村も、これに印を押している。ここは二四カ村入会地であり、両村の主張は成りたたないというものであった。
 裁決によると、土気往還の南側は野田村ほか一七カ村の入会地、北側は野田村ほか一七カ村のほかに、高田村を加えた一九カ村の入会地とする。そして前記二四カ村のうち、曽我野村、泉水村、今井村、大森村、生実郷、赤井村の六カ村は、この入会秣場から遠いので、以後は入会から離れるという内容であった。
 結局、越智・瀬又両村の主張は、認められなかった。