明治維新の年、慶応四年(一八六八)三月に佐倉藩領の坂尾村、長峯村が、生実藩領平山村を相手どって訴えた内容は、次のようなものである。
「中峠野秣場は、坂尾村、長峯村、平山村の三カ村で入会秣刈り取りし田畑肥料に用いてきたが、平山村名主から、他の村の者が新開願いを計画し、見分もあるかもしれないが、どうするかときかれた。そこで田畑肥(ごえ)に差支えるので、中止を願い出ると答えた。ところが同村組頭や領主役人が来て、調査の上新開杭をたてたので、承知してもらいたいとの連絡があった。驚いてゆくと、領主の差図であるといわれ、その杭には、新開予定地と書いてあった。この場所は森覚蔵様代官の際に、新開が企てられたが、中止を願い出て認められている。この地は寛永十五年に下げ渡され、両村の秣場はここだけであり、田畑肥(ごえ)にも困っている。領主役人の差図といって、不法な杭木を打ちたて、入会地を押領する企てにちがいない。」ということである。
これに対して、平山村では、「この野は、東金街道の途中で、一一年前から新開をいわれており、また今春にも開発の催促をうけている。この秣場百町歩を開発するつもりであり、他村より新開願が出されては困るので、相手方に交渉した。その際は、差支えない。地元で勝手に開発するようにいわれたので、新開を願い出たのであり、相手方の心変わりに困っている。」と、積極的な開発の意志をみせている。
内済議定書によると、秣場のうち五〇町歩を坂尾村・長峯村両村分、五〇町歩を平山村分と分け、この分けた分については、利用を自由とし残りの面積をそれまでどおり、三カ村入会にするという案で解決をみた。