第三項 助郷(すけごう)をめぐる争論

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 江戸幕府は、駅伝の制を確立して各街道に宿駅を設定し、宿駅の近郷の村々から、人馬を動員して、御用継立(つぎた)てに当たらせた。そしてこの課役を助郷(すけごう)とよんだのである。
 交通量の増大は、宿駅の負担を増加させ、助郷村々の負担が大きくなっていく傾向にあった。農民にとって助郷負担の重さを、『地方凡例録』でも次のように述べている。
 宿揚の勤めは、一日であるが、二里三里と遠い場所では、前日の昼より村を出て、その夜宿に着き、翌日勤めて夕方に終われば夜どおしでも帰れるが、継場が遠い場所だと、午後三時ころから継送って、夜に入って宿場に帰れば、その夜は村へ帰ることもできない。また泊って、一日の勤めのために、前後三日をつぶしてしまう。農作業に遅れ、その上二日分の宿泊費の入用が多くかかり、途中の食費、小遣銭がかかり、一日分の人馬賃銭は少しも残らず、かえって出費が多くかかり、村人の負担は大きいものである。

 特に人馬の入用が増大すると、これまでの助郷村々だけでは負担しきれないため、近くの村々へ、差村といって、臨時の助郷役を課するようになった。しかしそれをうけた村々でも、その負担が大きいため、なんとか逃れようとして、差村免除願の争論がしばしば起こっている。
 千葉周辺で、継立て人馬をおいた宿場は、馬加村(幕張)、検見川村、登戸村、千葉町、寒川村、蘇我野村、浜野村、野田村(誉田)、土気町、中野村、犢橋村の一一カ村である(八二ページ四―五図参照)。
 犢橋村の場合、天保年間には、助郷役を勤めたのは、宇那谷村、西寺山村、作草部村、東寺山村、殿台村、萩台村の六カ村が勤めていた。また野田村の場合は文久年間であるが、平常の際は、「人足四人、馬四匹」を用意していたという。
 こうした人馬勤めに際して、延享三年(一七四六)には「一日一人に付き米五合、馬一匹に付き米一升宛」支給されていた。文久三年の検見川への助郷村であった稲毛村、小中台村、薗生村、宮野木村の場合「一日人足二百文、馬一匹三百文の支給」とある。また宿駅御用を勤める村々では、「諸役御赦免」がされていた。
 千葉市周辺の場合、道路も脇往還であるため、諸大名の参勤交代などの助郷は少なかったが、鷹匠(たかじょう)御用、日光法会、あるいは幕末には、異国船警護役に伴う巡視御用など、助郷課役は増加する一方であった。