房総御備場御用

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 ロシアの使節ラックスマンが、通商を要求して根室から長崎に来た年の寛政五年(一七九三)三月に、幕府は諸藩に沿海防備を命じた。そして文化七年(一八一〇)に、江戸の守りとして、相模、安房に砲台を築いた。安房を担当したのは、白河藩松平定信で、その際洲の崎、白子に遠見番所、富津に台場を築いたという。
 その後外国船の日本沿海への出現により沿岸警備が強化されたが、それに伴って、房州街道の交通量も増え、人馬助郷役が増加した。
 次に市内各地で起こった助郷争論をいくつかみてみる。天保期以降に特に助郷争論は集中して起こっている。