文政の争論

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 文政六年(一八二三)八月に、北生実村、南生実村より「松平越中守様御家中衆御通行につき」野田村助郷組合村々から、浜野村、曽我野村へ人馬を出すよう申し入れがあった。
 野田村助郷組合村々とは、当時野田村、上郷、下郷、古市場村、平山村、有吉村、辺田村、富岡村の八カ村である。この申し入れに対して、野田村組合側では、「すでに享保十年(一七二五)三月に、御鷹御用についての取り決めがある。そこでは、南・北生実村は、浜野村、曽我野村へ勤め、野田村は、組合村が多く、道のりも違うので、両生実村からは、野田村へ一切勤めない旨の決まりである。これをそのまま実行して欲しい。組合村々にとっても、野田村へ人馬を出しており、この上浜野村、曽我野村へ人馬を差し出すのは、村方一同の困窮になる」という主張であった。そして組合村々では、御役所より呼出しがあっても、出入りになっても一同が不承知ということを申し立てるとし、争論になった場合には、その費用を惣高割で負担することを約束している。同年九月、役所へ出した組合村々側の主張は次のようなものである。

「一、野田村の継立てをしても、二里三里離れており、夜になって帰り、翌日の家業に差支える。

 二、両生実村で差支えるというが、先年の同御家中の引越しに際して勤めており、今度差支えるというのは納得できない。

 三、この引越しは、浜野村、曽我野村だけで継立てしているわけでなく、他の継立て村で、差支えるうわさを聞いていない。八幡村で加助郷を頼んだ話をきいていない。

 四、北生実村、南生実村、浜野村、曽我野村、泉水村の五カ村に、今井村、小花輪村、赤井村、大森村、宮崎村の五カ村組合村を加えると一〇カ村になる。浜野村から寒川村までは、一里の継立てであり、仮りに、浜野村組合だけで三回運んでも、野田村継立ての一回の道のりよりも短い。特に浜野村から、寒川村までは、磯辺の平担地であり、御家中の荷物も、船で運ぶことが多いと聞く。

 五、新堰や用水路など、地方にかかわり自力でできない新規の大普請ならともかく、他の継場への人馬助郷の件は、村々一同不承知である。」


大体以上の論点である。
 その後の経過については、詳細は不明であるが、両者の主張が対立したため野田村名主・十右衛門、下郷村名主・十郎右衛門、古市場村名主・長左衛門、有吉村名主・弥惣右衛門の四人が、八カ村惣代として、江戸表へ出かけて訴えた結果、ようやく免除がいい渡された。
 その後八カ村では、次のような取りきめをしている。すなわち、両生実村名主の要求がつぶされ、今後八カ村名主、特に江戸表へ訴え出た惣代四人は、相手の村々の小前からも憎まれることになるかもしれない。そこで、それ以後は、八カ村名主、小前はお互いに兄弟同様にし、すべての問題に協力しようと申し合わせた。
 しかしこの両生実村、浜野村と野田村組合村々との助郷争論は、これで終わったわけでない。再び、天保十四年(一八四三)に一年近く、しかも生実藩領主に駕籠訴えに及ぶ大争論が起こった。