このために、天保十四年三月に、北生実村、南生実村、浜野村三カ村より、生実藩役所に対して、同藩領である上郷、下郷、村田村、古市場村、有吉村、遍田村、平山村、野田村の八カ村への加助郷を頼んだのである。
三カ村がこれら八カ村から助郷を出させようとしたのは、房総御備場御用として、松平駿河守家中の引越し、代官篠田藤四郎一行の帰府、また四月には、日光御参詣のための助郷役と御用が多くなっている。三カ村から日々人馬を出して、ことごとく足痛、あるいは疲れで病人がでており、時節柄、種蒔、苗代づくりなど田畑の手入れ時期であるのに、助郷御用で農作業もできない、ということにあった。三月十一日には、八カ村の名主、組頭を生実役所に呼んで、三カ村側の申し出を伝えている。
これに対して野田村ほか七カ村側では、両生実村、浜野村への人馬助郷は一切なく、前述した文政六年の例をひき、文政六年の松平越中守帰府、代官森覚蔵様房総御備場赴任に際しても、江戸出府して願い出てとりやめになったとし、今回の助郷不承知を申し出た。
一方藩側では、今度は日光参詣も加わり、通行人馬も多く、文政年間と条件が違うとして、説得しようと努めた。そして近くの他領の例を引きあいに出している。それによると佐倉藩領の寒川村から、佐倉表へ願い出て、これまで助郷村でなかった加曽利村ほか五カ村への加助郷が命ぜられ、最初これを拒んだ村々は、牢舎、手鎖を仰せつけられている。あるいは今井村でも、組合でない宇那谷村ほか四カ村が命ぜられているなど、他領でも例があることを強調した。野田村組合の場合、他領の草刈村、越智村、大木戸村、高津村などは除いてあり、両生実村、浜野村ともに生実藩領である。「大切の御備場通行、公辺御用人の義につき」助郷人馬を出すようにとの説得がつづいた。今回に限って、人足百人、馬百匹の場合には、八カ村から人足五〇人、馬五〇匹、三カ村から五〇人、五〇匹と半分ずつ負担してはとの案が、藩から示された。
最初全面的に反対していた八カ村側も、次のような条件つきで引受けるとの回答をした。その条件とは、今回だけ、八カ村より人足百人を出すが、今後助郷の件を一切頼まない旨、三カ村役人より、八カ村側へ請文(うけぶみ)を出して欲しいという内容である。しかしこの条件については、三カ村側が納得せず、また藩でも、浜野村への新規御蔵建設を、日光社参が済むまで延期しているが、この建設人足を八カ村のみで引受けるかなどとほかの条件をからませて、助郷を引きうけさせようとした。八カ村側の意向はかわらず、領主役であれば人足を差出すが、今度の件は納得できないという主張を続けた。
その後田植などでこの訴訟はのびていたが、北生実村万徳寺の住職が仲介に入った。その解決策とは、領主が五〇両、三カ村から五〇両、八カ村から五〇両の計一五〇両を野田村組合へ預け置き、一カ年に一割の利分を差出して、浜野村人馬助郷の手当にしたらという案であった。しかし、八カ村側では、「古来より例のない件を三カ村側から申しかけた事なので、村々の百姓は不承知」として、この案も拒否した。六月下旬には、八カ村から逆に江戸屋敷に訴状を出している。
その内容は、前述の経過を述べたあと、自分たちも野田村組合として助郷役を勤めており、二重勤めになっては、村が立ちゆかないということである。
その後七月、八月と調べが続き、九月十二日に八カ村側は江戸より帰村した。この時点では、八カ村側に有利であったらしく、南生実村など三カ村側は、江戸に残り加助郷願の運動をつづけたようである。
十月三日に出府の命があり、各村代表が出かけてみると、九月の時点とは異なった申し渡しをうけた。それによると、
一、藩から人馬買上手当金として、毎年一〇両給付する。
二、大名通行の助郷については、新規助郷を申しつけないが、御備場御用については、特別とし、小花輪村を除いて、地廻り一同へ御用人馬を命ずる。しかしこうしたことはそう度々あることではない。
三、六〇両を八カ村から差出すこと。その理由は、領主の入国に際して大勢でつめかけて騒ぎ、また差越願、強訴など、どんな咎をうけても一言の申訳のない状態であった。お咎めが軽かったのも、上金をさせようという含みがあったからである。また今春の助郷に際して、特に三カ村の負担が重かったので米一三〇俵を三カ村に手当として出したが、八カ村側がちゃんと助郷負担をしていたなら、その分は不要であったからという理由である。
これらの申し渡し内容は、八カ村側のそれまでの反対の主張が認められたとはいえなかった。第三点の「大勢で騒ぎ」という状況は、領主にとって、不穏と思われる状態があったことを思わせる。
その後上泉村次郎右衛門、川井村五郎七の二人が調停に当たった。その結果条件はかなり緩和され、「松平駿河守の通行に限り、万一浜野村など三カ村の人馬が不足して差支えた場合に、生実役所より触出し、野田村以下七カ村にて人馬を差出す、もっともその賃銭は、役所より出す」という内容である。
これについても、八カ村側は「人馬の儀については、少しでも紛らわしい文言があっては、後代の患にもなる」として、仲介者に破談を申し入れている。この間出府した者が宿預けになったりしたようであるが、ついに十一月十七日に領主森川俊民に駕籠訴の直訴をした。
この直訴に対しての処理は、比較的早く、特に処罰された様子は見当たらない。十一月二十四日に駕籠訴の者は帰り、他の者も二十六日には帰村した。のちの嘉永五年の史料によると八カ村側の主張がほぼ認められたらしく、「浜野村へ年々人馬手当を下しおかれ」て解決したようである(野村兼太郎『近世社会経済史研究』所収「生実郷助郷一件、天保十四年」)。三月から、十一月にわたるこの助郷争論は、ちょうど隣の佐倉藩領の場合と同じ時期、同じ理由で起こったものであった。