事件の発端は、天保十四年二月二日に代官から、長峯村、下坂尾村、上坂尾村、川戸村、仁戸名村、星久喜村、矢作村の七カ村名主、百姓代へ印鑑を持参して役所に出頭するようにとの命令から始まった。用件とはこれらの村々へ寒川村助郷が命ぜられ、請書(うけが)きを出すようにいわれたのである。そして七カ村は寒川村から訴えのあった継場人馬不足に対して加助郷をするよう命じられたのである。これに対して七カ村側は次の理由をあげて免除願を申しでた。
一、仁戸名村付けで御鷹御用を勤め、夏は、加曽利村付けで同様勤めており、前から助郷人馬を出したことはない。
二、寒川村、千葉町等多くの家数をもつ村々が充分勤めを果たせないとは納得できない。
近村の貝塚村、原村、高品村、作草部村などの御公用明場の村々もあるのだから、我々のところに課せられるのは納得できない。海道御用だから、幕領、他領主を問わず近くの村々に課して欲しい。
ところがこの願書を提出したところ代官から「不埓(ふらち)之旨」と叱られ、一同は宿預(やどあずけ)を言い渡された。そこで七カ村側は、今度の場合、千葉御役所より、郡全体の負担にするよう命じてくれるならば助郷役をうけると答えると、役人側は、郡中といっても印西川の向うにも領地があり、そこからは遠いので、千葉郡一般郡中を申しつけることになり、それを七カ村側はうけいれるとの願書を出して、ようやく宿預りは解かれたのである。そして二月より四月の間に、千葉郡一般とはいえ、一三カ村に助郷が課せられた。一三カ村とは前記七カ村に、小倉村、坂月村、大草村、北谷津村、旦谷村、原村の六カ村を加えた村々であった。
同年十一月十五日に代官から、小倉村、加曽利村、長峯村、星久喜村、坂尾村、川戸村、仁戸名村、矢作村の八カ村へ廻状が出され、再び松平駿河守房総御箇(おかため)交代のための助郷が命ぜられたのである。
これに対して、八カ村のうち小倉村を除いて、七カ村の惣百姓が御免願を佐倉表に出すことに決め、各村の名主を代表として送った。そして免除願を提出し、すでに二月に加助郷を勤めたのに、また命ぜられて困惑している。寒川村は、殊のほかに他の継場より多くの人馬願を出しているので、その点を調べて欲しいとの内容である。
十月二十七日に、村々は役所よりの呼出しをうけ、代官から、今年の春に請書を出しながら、今更免除にはならない旨を言い渡された。村々は春は助郷でなく、郡中一般に勤役を命じるということで請書を出したのであると申し入れたが、はっきりした返事ももらえず、奉行への取り次ぎも断わられた。
十一月十六日に、代官は、「お前たちは、役所の申し付けにそむくのか」と村々の代表に対して、威嚇的(いかくてき)態度にでており、代表が、「御免除願を申しあげ、奉行所への取り次ぎをお願いしている」と答えても、「お前たち一同は、町宿へ徒党(ととう)をくんでやって来ており、むりに願い出ると強訴(ごうそ)として扱う。徒党・強訴の罪で、銘々の名主役はもちろん、身分にも差し障りがあるので覚悟するよう」と強圧的態度で助郷免除願の意図をくじこうとした。
村々が御鷹御用は夏冬格別の人馬を必要とすると申しでると、そうした御用は世間一般のことであり、最早請書きを出した以上、一〇万石の大名については高に応じて申しつけ、二〇万石の大名には、大高の負担を申しつける等とほとんど問題にされず、かえって、十二月九日に願書の願い下げが言い渡された。この願書願い下げの文面は、役所で作成したものであり、これを村々に提出させようとしたのである。この文章の一節に、
今回の助郷は、免除にならないと申し渡された。今後は、他の村から助郷を願い出ても、簡単にとりあげず、よく調査してからにする。しかしその時の事情によるのであり、今後決して助郷を命じることはないと断定できない旨を申し渡され、承知した。
という文面があった。大変まわりくどい表現であるが、今回の助郷免除はできない。助郷を課すのは慎重にするが、今後もないとはいえないという趣旨であり、村々の納得ゆく返事ではなかった。これ以上現地で交渉しても無駄だとして、名主たちは、江戸表へ出て、直接藩主への駕籠訴えを計画したのである。名主たち一行は、十二月十三日の夜中に出発して、十三日の夕方に江戸銀町、原口屋に宿をとり、宿の主人にも事情を話し、他からの尋ね人にも知らないと答えるよう頼んでいる。翌十四日には、訴状を書く者、屋敷の様子や、出訴する場所の下検分などが行われた。
その訴状では、先にみたように、御鷹御用をはじめとする諸役を勤めているのに、新規助郷は納得できない。郡中一般といいながら、それが守られず、同じ村々にだけに負担がかかっている。助郷を願い出た寒川村をはじめ、実態をよく調査して欲しいなど、千葉役所で主張していたことである。
この時江戸に出ていた一行は、次の八名である。
加曽利村 名主 粂太郎
長峯村 組頭 七郎兵衛
坂尾村 名主 寅三郎
同村 組頭 忠右衛門
川戸村 名主 治兵衛
仁戸名村 名主 藤三郎
星久喜村 名主 熊治郎
矢作村 名主 権右衛門
そして、十四日夜には、長峯村から太郎左衛門と源蔵の二名が加わった。翌十五日は、午前八時ころ宿を出て、一ツ橋門を廻り、榊原屋敷の近くで十時ころとなり、佐倉屋敷の近くで、各自の役割を決めている。当時の佐倉屋敷は麻布広尾近くにあり、領主は堀田正睦である。ここで殿様の下城を待ち、人通りの少ない屋敷脇で訴状を差し出す手はずを整えた。願書は三通用意し、二人一組で三組に分れ、失敗のないよう準備した。第一番 熊治郎(差添人寅三郎) 第二番 粂太郎(差添人治兵衛)第三番 七郎兵衛(差添人藤三郎)
太郎左衛門、源蔵は遠見の役、忠右衛門、権右衛門は控えで残っていた。お互いに二、三間離れて一列に並んで、殿様の下城を待ちうけ、熊治郎が願書を差しだすことにしていた。
駕籠脇で熊治郎が「御領分村々名主共」と大声で叫び、願書を差し出すと、御供目付けが願書を受けとり、駕籠に入れ、八人の者は、屋敷内に連れてゆかれた。そして留守居役から村名をきかれ、あき長屋に入れられたが、そこでの生活に不自由をした様子はみられない。
ここから残っていた太郎左衛門、源蔵へ手紙を出して、一人を村へ帰して、無事願書が届けられたことを伝えさせている。
十六日、十七日と一同は、江戸屋敷内で取り調べをうけ、十八日になって、佐倉で取調べをするよういわれ十九日朝出発して、同日の夜十時ころ佐倉へ着いている。この時佐倉役人は「訴えの者どもは、手鎖りできたのか」と問いかけており、直訴を犯罪として受けとめている面を知らせてくれる。夜中になって、一同がそろったが、代官から吟味中は町宿預けを言い渡された。
その後の取調べの中で名主たちは駕籠訴えについては、村々の百姓が江戸訴えと騒いでいたので、自分たちが代表としてでかけたと答えている。寒川村などの人馬日〆帳を取り調べてから裁決するという方針に対して、助郷の前例のない村々を、日〆帳で判断するなら、当然助郷が割当てられてしまうとして反対し、あくまで免除を主張した。佐倉へ連れてこられてから十一日目の十八日に宿預け御免となり、二十九日に帰村が許されるに至った。しかし翌年正月二十三日までは、一応村預りの形であり、二十三日に、ようやく「他参(たさん)」しないという請書きを出して、身柄拘束を解除された。そして、二月十三日に呼出しをうけ、「今度の願い出の趣旨はもっともなので、承り届ける」として、差し出す人馬は小扶持方になる旨の申し渡しがされ、助郷役は免除になった。以上大分この事件の経過を詳しくみたが、この村々の要求は、殆んど犠牲も出さずに要求が認められたのである。
生実藩領、佐倉藩領と支配は異なるが、駕籠訴えの時期は、生実藩が十一月中旬、佐倉藩の場合はそれから一カ月遅い十二月中旬であった。佐倉藩領の村々では、すでに生実藩の結果がわかっており、これを参考として同様な行動をとったことは充分考えられる。当時千葉周辺では、助郷騒動がまき起こっていたのである。