助郷を命じられるのは、近郷の宿場へばかりでなかった。元治二年(一八六五)正月に、葛飾郡五カ村、千葉郡七カ村、山辺郡二二カ村、武州足立郡一三カ村の合計五二カ村へ、日光表の警衛と、野州周辺の浮浪の徒の追村を理由に、草加宿(埼玉県草加市)への当分助郷が命ぜられた。千葉市域からは、作草部村、貝塚村、西寺山村、東寺山村、殿台村の五カ村と土気の大椎村、越智村、上大和田村、下大和田村、大木戸村の五カ村が含まれている。
草加宿まで遠距離であるため、作草部村など五カ村は、雇替人馬賃として、一一六両を草加宿へ支払い、助郷役にかえている。
なおこのほかの助郷争論としては、
△弘化四年(一八四七)七月
大森村他五カ村より、辺田村、平山村、星久喜村など合計一一カ村を差村したいとの願いが出され、その免除願
△嘉永三年(一八五〇)六月
矢作村々などが、浜野、泉水、曽我野、寒川継場のうち、どこかに加助郷をするようにいわれ、その免除願
△嘉永五年(一八五二)
辺田村、平山村から今井村、泉水村への差村免除願
△文久三年(一八六三)七月
生実藩領中西村、茂呂村、大金沢村、小金沢村、富岡村、落井村、谷津村、駒崎村、刈田子村、遍田村、有吉村、野田村、平山村一三カ村への小金宿(現松戸市)への当分助郷の免除願。この争論で江戸出府、小金宿への掛け合いなどに要した費用は、二百両と二貫六百文に達した。
まだ史料発掘によって多くの助郷争論がでると思われるが、近世の農民の生活の中で、助郷が大きな負担であったことが争論の原因であり、またそれ故に粘り強く免除願の争論が起こったのである。