第一項 新田開発の概観

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 日本の耕地面積の変化をみると、八世紀末には約百万町歩、一六世紀末約二百万町歩、一九世紀後半約四百万町歩、二〇世紀中ごろで六百万町歩であるという。江戸時代に約二百万町歩から四百万町歩と、二百万町歩の増加を示したことになる(『近世の新田村』四ページ)。この二百万町歩が、新田・新畑開発による増加であり、江戸時代に特に新田開発が盛んに行われたことがわかる。
 領主にとってみても、新田・新畑の開発は、それだけ領内の年貢増加になるため積極的に認めたのである。新田開発の幕府の政策も、初期の地元村による、村請開発を中心にする政策から、開発奨励政策が進むと、「願人があった後に、村請の開発を願い出ても、開発の方法が同じならば、最初に願い出た者に許可し、村請の件は許可しない」と、その政策も大きく変わっていった(菊地利夫『新田開発』(上)五二ページ)。
 結局村請新田の開発優先から、願人を中心にした開発・町人請負開発への転換は、享保期の年貢増徴政策と関連があった。
 享保期には「新しい田畑場に、竹、木、よしなどが生えて荒れているところは、地主を決め、いつから年貢を納められるか調査せよ。田畑にならない所も、林畑、あるいは山野銭をとれ」というように、開発を進め年貢を少しでも多くとるよう試みたのである。千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村の秣場に野永がかけられたのは、前述したように享保十一年(一七二六)である。
 さて千葉周辺の近世における新田開発の状況はどうであろうか。史料的に全部を調査したわけでないが、はっきりと年貢が課せられた年代のわかる新開地をみてみると、元祿期以前の新開地は少なく、面積について多少はあるが、宝永年間と、享保年間、寛保期にかけて集中しているということである。
 四―一三表によってその傾向をみてみる。元祿より前では、長沼新田が特に大きかった。延宝年間に六方野秣場七五三町歩余を開発した新田は、町人請負新田である。宝永年間は、特に宝永三~六年(一七〇六~〇九)ころに多く、野呂村、刈田子村など田畑を合わせると、各村とも二町近い面積を示している。
4―13表 新田開発事例
年号村名面 積
元禄前延宝年間長沼新田753町(町人請負新田)
延宝7(1679)星久喜村田2反8畝、畑3町3反9畝
元祿年間平山村      畑3反5畝
宝永期宝永3(1706)刈田子村田9反1畝
〃 4坂尾村      畑1町9反
〃 4川戸村      畑2町1反7畝
〃 6野呂村田9畝    畑2町1反6畝
享保・寛保期享保3(1718)宇那谷村田3町1反5畝
〃 12登戸村        畑6反1畝
〃 16(1731)宇那谷村田2町7反2畝
〃 16星久喜村田6反7畝、畑2反9畝
寛保2(1742)        畑1反
延享4(1747)刈田子村      畑2町1反5畝

 享保年間も各地で新開が進められており、享保十六年(一七三一)以降に多い。特に宇那谷村では、享保期に新田、五町八反余と大幅な開発が進んだ。
 関東地方では、武蔵野台地開発にみられるように、享保新田開発令(享保十一年、一七二六)以降開発が活発に行われ、両総台地では、前期開発隆盛期の新田開発が目だつという(菊地前掲書、一五〇ページ)。
 千葉市周辺でも、大規模な町人請負などの場合はともかく、村々での開発は、宝永、享保期を中心に考えてよかろう。これはやはり幕府の政策の反映と思われる。また享保期以降については、特に秣場争論でみたように、秣場開発が積極的に進められたためと思われる。
 幕府も秣場については「秣場野原山林など入会所は、地元村たりとも新開はさせない」という方針であり、享保期以降も、しきりに「今までの田畑や秣場の妨げになる新田は許可しない」と指示したが、一方享保期の開発推進政策があり、秣場保護の政策が守られたとはいえない。
 ここに秣場争論の多発する背景があった。
 六方野でも再び享和年間に、川野辺新田、小深新田の開発が、百姓請負新田として進み、また穴川野の開発もこうした入会秣場であった。
 新田開発とともに、用水の確保が必要である。用水堰として後述する草刈堰・丹後堰がよく知られている。しかしこうした用水路のないところが多く「天水場に御座候」(薗生村)、「此の村用水御座なく候、天水壱カ所御座候」で、天水に頼るところも多く、日照りが続けば、すぐに旱損となる村々も多かった。こうした用水の問題が解決しない限り、新田開発にも、一定の限界があった。