穴川野は、秣場争論のところでもふれたように、千葉町・寒川村・登戸村・黒砂村の四カ村、妙見寺・来迎寺・大日寺の三寺領の入会秣場であった。
都賀村出身の田村吉右衛門は、文政七年(一八二四)十一月に、この穴川野二百町歩の開発を志し、佐倉藩主堀田相模守に願い出て、同九年六月に開発の許可がおりた。
このときに、登戸村なども同時に新開を行ったらしい様子は、弘化三年に、領主から、吉右衛門の功労を賞した文の中に「右三カ村でも、開発を願いでたので、其方へ(吉右衛門)五分、その他割合をもって追々に開発地なれ候様相なり」とあることからわかる。秣場等原野の開発が許可されるとき、地元村々でも同時に開発を願い出ることは一般的であり、この場合もそうであった。
入植百姓は、四四戸、うち一九戸は、吉右衛門から荒地を買取った百姓で、二五戸は田村氏の永小作であった(『千葉市誌』三一五ページ)。
現在穴川神社境内に、二つの碑文があるが、右奥にある碑文は次のようなものである。
畠う津(つ)は みな 我子なり /\
恵みの里に 開く春の日
天保四年癸巳二月建立
穴川氏
多分これは、最初の開発が行われて一段落したときの記念ではなかろうか。穴川氏とは、田村吉右衛門であり、開発の許可がおりて、八年後のことである。
しかし、初期の開墾は困難をきわめ収穫の不安定から、移住者の離作もあり、土地も荒れるに至った。
死んでしまおか穴川へ出ようか
死ぬにやましだよ 出たがよい
と里謡に詠われた歌も、初期の状況をうたったものという。
防風林の植付け、甘藷・陸稲・麦を中心とした植付け、道路の整備など、農業生産、生活環境への努力が行われ、移住農民に対する農具の貸与などの援助も積極的に行ったようである。
天保七年の飢饉も無事に乗り切り、ようやく農地も安定してきた。
穴川神社のもう一つの碑文もこうしたときにつくられたものであろう。
天保九戊戌春建之
穴川の開発に 献社の意を記念
神垣や はら いっぱいに
雉子も鳴く 穴川
万よ幾(き)日に 里開く春 政女
穴川の水も 長閑(のどか)に
うちすみて 娘増女
こうしたのどかな連句がよまれたのも、一応開発の目安がついた段階であったろう。
この結果、弘化二年(一八四五)には、「其の方存念にてもくろみどおり、開発相なり候に付き」と、藩主堀田相模守は、紋付き三組、木杯一組を田村吉右衛門に贈り、開発の功労を賞している(『千葉市に輝く人々』一三〇~一三七ページ・『千葉市誌』一七〇~一七六ページ)。