六方野については、秣場争論の項でもふれたが、この地の江戸時代の開発の歴史をふりかえってみると、初期の面積は、一、五〇七町歩余の広大な原野であった。六方野は現在の地名でいうと、千種、三角、大日、長沼原、山王、六方、愛生、若松の各町周辺である。寛文年間に新開願いが出され、延宝年間に、そのうちの七五三町歩余が新開となった。これが長沼新田である。そして残りの七五三町七反歩余が秣場として利用されたのである。
十八世紀末の寛政・享和年間に、更に四五〇町歩が開発され、川野辺新田、小深新田となったのである。
享和三年(一八〇三)に、東葛飾郡寺内村の彦右衛門が、この新田開発の一部を請負った。
一九八町三反一畝二二歩
彦右衛門、藤兵衛請負分
二五〇町
又三郎、安兵衛、直右衛門、留八、谷(ママ)右衛門の五人請負分
さて、彦右衛門たちだけでなく、又三郎ら五人も同じく二五〇町歩の開発を引請けたのである。しかしこの五人は、死亡・欠落(かけお)ち・困窮・類焼などの理由で、間もなく秣永上納もできなくなってしまった。
そこで六方野秣場入会に参加していた地元一三カ村が願い出て、この開発を引請けることになったのである。又三郎ら五人が上納できなくなった文化五年(一八〇八)の秣永二貫五百文(二五〇町歩分)についても、一三カ村が一〇年賦で納入することにしている。
一三カ村と引きうけた開発面積は次のとおりである。
一二一町二反五畝二六歩
検見川村、畑村、東寺山村、天戸村、長作村の五カ村
七七町五反二四歩
犢橋村、稲毛村、小中台村、薗生村、殿台村、宇那谷村、和良比村 小名木村の八カ村
そして文化七年(一八一〇)から二〇カ年の鍬下年季(開発のため年貢を免除する期間)が定められた。
しかし、もし年季中に彦右衛門や、藤兵衛や村人から請人願が出された場合には、その者に権利を譲り渡して開発をさせる旨の条文があり、最初の開発願人の権利を重んじていることがわかる。又三郎ら五人というのは、地元村々の有志だったかもしれない。安政五年(一八五八)四月に、これらの村々に対して、新開地に増加した家数、人数の差し出しが命ぜられた。これに対して「組合村々の新開発地面凡(およ)そ百町歩、家数凡そ二百軒余も増えた」と答えており、開発がかなり進んだ様子がみられる。
次に彦右衛門の請負った新開発地についてみると、実績があまりあがらず、文化十年(一八一三)になると、千葉郡辺田村の吉郎右衛門が三百両でその開発権を譲りうけ、開発請負人となった。
このときの開拓民は、加曽利村、辺田村、矢作村、貝塚村の出身者が多かったという(『千葉市誌』三一六ページ)。天保十五年(一八四四)に面積一三一町六畝一八歩、村高三〇七石三斗余と決定し、この年より年貢・諸役・高掛物を納入するようになったこれが川野辺新田である。
武州足立郡本村上新田の藤兵衛が請負って開発した小深(こぶけ)新田も、この年に、五九町二反八畝二一歩、村高一六一石八升二合に定められた。一応天保年間に開発が行われたと考えてよかろう。
しかし、天保十五年七月に、川野辺新田名主、吉郎右衛門に対して、新開予定地の引上げと、名主役交替の命令が出された。
その理由は、名主吉郎右衛門が引きうけた新開予定地が、まだ四二町八反歩余も未開発のままになっており、享和年間に比較しても村の人数が増加せず、これは開発請負人の取計らいが悪いからだということにあった。そして未開発地の取りあげ、名主役をやめるようにとの意向が出されたのである。
この未開発地については、土地の不足している小前百姓、ほかの土地から耕作に来ている入り百姓に、平等に割り渡し、鍬下年季を定めて、相応の地代金を納入するよう指示している。
このように川野辺新田開発についてみても、百姓請負新田のかたちで開発されながら、彦右衛門から吉郎右衛門とその開発請負人もかわっており、原野開発が困難であった一面を、うかがうことができよう。