第四項 丹後堰(たんごせき)

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 丹後堰をつくるのに功績のあった三川(寒川)の住人、布施丹後常長については、はっきりしたことはわからない。千葉氏の家系を引くものという説もあるが、戦国の争乱の中で土着した土豪的農民であるかもしれない。
 現在彼の事業について知りうる資料は、千葉寺にある「新潼記念塔」(寛永二年建)と「布施丹後守遺徳の碑」(明治二十九年建)の二つしかない。前者の「新潼記念塔」は、用水路の完成を期して建てられたものであり、布施丹後は、寛永五年(一六二八)に死去しているから、これは、彼の生前に建てられたものである。この記念塔の碑文によると「御奉行・御意をもって、慶長十八年正月十四日始む、人足七千余力をもって、五月九日大堤おわりぬ。池水大海の如し、樋口流水ほうはい(澎湃)す、千葉寺・千葉・辺田・矢作・余水をもって今井」(塔身)とあり、後の一節に、寛永二年十二月一日とあり、工事は慶長十八年(一八六一)一月に始まり、寛永二年(一六二五)五月までの一三年間の歳月をかけた大工事であった。
 「御奉行御意をもって」という文章は、単に堰工事の許可を認めたという意味にとるか、あるいは工事に対する援助があったととるか。そのあとの文に「三川住人布施丹後之子雅楽助、任御公旨、日夜依辛苦定潼場」とあり、「任御公旨」という表現から、何らかの資金援助を含めた工事への援助があったと思われる。もちろん常長、その子雅楽助を中心にした努力によって開発が進められたことに変わりはない。
 工事の完成によって、都川の川水を結城(寒川周辺)・千葉寺村・千葉町・辺田村・矢作村・さらに余水のあるときは、今井村までが利用することになった。
 現在市街化の波の中で、丹後堰は、わずかに用水路の跡でしのぶしかない。

布施丹後の記念塔(中央のもの,千葉寺境内)

 実際の用水路、堰をみると、まず川戸村・星久喜村方面から流れてくる都川の流れから水を引いて堰(せき)をつくり、その堰から都川に沿って、矢作村を通過させた。
 水に落差をつけるために、通称「矢作(やはぎ)堰」をつくり、そこに水をため、用水路は猪鼻台の裾を迂回して、葛城台の下に到達するのである。この水路は、寒川村、五田保と、全長五キロ余に及んでいた(『千葉市に輝く人々』一二五~一二九ページ)。
 延享三年の『寒川村指出帳』に、「用水堤堰(ていえん)、元より水末まで二、〇五八間、年々郷ざらへ、人足水下村々より仕まつり候、大破に及び候節は、殿様より下され遊ばされ候、普請の節は、御奉行衆御越しなられ候、人足の儀は、御合領仰せつけられ、御普請あそばされ来たり候。」とある。
 これは、江戸時代における丹後堰の用水路の管理、修理についての状況である。用水路の溝浚(みぞさら)いは、毎年水下村々で行っていること、大きな修理については、領主の援助で行っていることがわかる。