開発

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 草刈堰は、村田川の流れを上総国市原郡草刈村地先で堰留(せきど)め、その水を灌漑用水として利用したものである。現在でいうダムを考えればよい。『千葉郡誌』では、この草刈堰について、鴇田五郎右衛門を中心に、その事業を述べている。
 それによると、五郎右衛門の父は、大阪から下って、椎名郷上郷茂呂に住み、五郎右衛門は一五歳で名主役となったという。付近の旱害をみて草刈村名主と相談して、その賛成をえて、慶長十七年(一六一二)五月に堰の工事をはじめ、約三年の歳月をかけ、遂に元和元年(一六一五)三月に堰の工事が完成した。小路も菊間・八幡村方面への中川溝・中西・刈田子・古市場・生実方面の生実溝、そして堰の排水となる村田川である。

草刈堰(現況,市原市草刈)

 この工事費用の六割に当たる一、六一七貫余を、五郎右衛門が負担したという。この結果千葉郡の生実村、浜野村、古市場村方面、市原郡の菊間村、八幡村など八百余町がこの用水路のため旱害から逃れることができた。元和八年より堰代米一三二俵を毎年鴇田家に納め、堰の管理を委託した。その後同家の娘が、草刈村の加藤初太郎に嫁したとき、堰代米を加藤家へ贈ったという(『千葉郡誌』八三七~八三九ページ)。
 一方『市原郡誌』では、草刈堰については、次の二つの説を載せている。一つは、慶長年間に、生実の人篠崎某及び茂呂の人鴇田五郎右衛門が旱害を憂えて、時の代官高室金兵衛の許可をえて、慶長十七年五月より元和元年三月まで、二年一一カ月かかって、堰を竣工した。
 そして堰の管理は、水下村々より玄米三百俵を出して、各村交互に修繕工事を負担してきたが、明治十三年以後、水下各村々の懇望により、草刈村で担当することになったという。
 二番目の説は、元和八年代官高室金兵衛が、この地の旱害を憂い、村民と謀って、堰をつくったというのである(『市原郡誌』八四五~八四六ページ)。
 『明治以前日本土木史』は、前者の説をとり、堰の竣工を、元和元年三月としている。
 一番目の説は『千葉郡誌』とも異なり、生実村の篠崎某及び代官高室金兵衛の名もあげている。
 二番目の説は、次に述べる「高室金兵衛碑」の内容と同じであり、ここでは、鴇田五郎右衛門も名を出さず代官による堰工事という説である。