代官高室金兵衛の碑(千葉市生実町妙印寺跡)
この碑文では、
堰の由来を、古書で詳かに尋ねると昔生実領は、代官高室金兵衛が支配していた。領地の北生実村・浜野村・古市場村・村田村や隣郷の永井信濃守領分の上総国三カ村の旱損がひどかったので、高室金兵衛は、草刈川をみたてて、元和八年に堰をつくったのである。
妙印寺を高室氏の御祈願所として御影像を安置し、堰の安全を祈願し、また碑を建て、堰の由来をしるして、後世に知らせるのである。
妙印寺を高室氏の御祈願所として御影像を安置し、堰の安全を祈願し、また碑を建て、堰の由来をしるして、後世に知らせるのである。
この碑文には、一言も鴇田五郎右衛門については、ふれていない。これは何故であろうか。碑文を建てたのが幕末であり堰がつくられて二〇〇年後のことであり鴇田家について忘れられてしまったのであろうか。碑文では、当時の代官、高室金兵衛を最初の開闢者としているのである。
高室金兵衛は、高室昌成であり、『寛政重修諸家譜』によれば、祖父は武田信玄・勝頼に仕え、のち天正十二年、祖父・父ともに家康に仕えたのである。
昌成(金兵衛)については、「台徳院殿(秀忠)に仕へたてまつり、のち御代官をつとむ」とあり、代官をつとめていたことがわかる。
古市場町周辺が、元和八年(一六二二)に、高室金兵衛支配地となっているという指摘(和田茂右衛門『千葉市の町名考』一三七ページ)をみると、『市原郡誌』の元和元年説は、成立しないことになる。いずれにせよ、鴇田五郎右衛門と高室金兵衛については、なお今後の究明が必要である。