堰の管理

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 草刈村にとっては、堰ができたため、堰地・堰留土取場、惣水切落場などかなりの面積をとられ、村高五百石が、半分近くになったともいう。その後度々草刈村と水下の村々で争論も起こった。例えば、堰修理のために土を取った場所がそのまま本高として、年貢地のままであることなども、草刈村にとっては不満であった。
 元和のころの堰の修理は、水下村々の自普請であったが、天和二年(一六八二)になって、堰請負人がたてられ、年に米一五〇俵が与えられ、その代わり、堰の管理・修理にあたったのである。
 その後一時自普請となり、元祿十年(一六九七)以降、明和ごろ(一七六〇年代)まで、ずっと草刈村から請負人が出ていた。草刈村の者が請負った理由は、他村の者では、堰地、土取場などはっきりわからない。また大水のときなど急の普請ができないためであった。安永年間には、草刈村の太右衛門が堰の管理を請負っている。