天明四年(一七八四)に、太右衛門と、水下村々との間に争論が起こった。争論の起こる前に太右衛門が水下村々の者の堰地不案内もあり、堰請負時期の切りかえにあたって、新しい条件で請け負った。
「一、堰米の件は、十二月または年を越してからのときもあるが、今後は、十一月二十五日までに出す。
土俵のことも、今まで数だけ出して用をなさないものもあるので、米俵の空俵を差し出す。
二、堰が難場になったときは、請負年季中で断ることができる。」
請負人を中心にした内容であったが、二の条件は、安永十年に水下村村の要求によって削除された。
しかし堰請負人の堰普請が遅く、四月中旬にとりかかる始末では、早稲の育成に間に合わないと、水下村々の不満をかっていた。天明三年の凶作、天明四年の堰破損などが続き、ついに水下村々は、天明五年(一七八五)からの自普請を太右衛門に申し入れたのである。そして堰用地の境をはっきりさせようとして太右衛門に聞いたところ、太右衛門からはっきりはわからないと断られ、村々は出訴することになった。
太右衛門から、謝罪文をとり解決してはという生実藩の意図が、生実村四郎右衛門から示されたが、村々では、それを断っている。水下村々では八幡村惣治郎、菊間村久右衛門、生実領内では、弥五左衛門、清兵衛らが代表となって出訴した。一方、太右衛門からは「謝り証文」を差し出すので、今一年請負わせて欲しいとの申出を、村々の代表にしている。
村々の代表は、当時草刈村領主の有馬屋敷に出かけて、訴状を出した。内容は「堰請負料として、米三百俵、空俵三千俵を渡しているのに、堰の整備をないがしろにしている。最近では、五月下旬に普請をしているために、用水として用をなさない。自普請をしようとしても、堰地がはっきりしないから調査をしてもらいたい。」というものである。
草刈村領主の有馬氏も内済を意図し、水下村々が、天明三年分百俵、四年の三百俵、計四百俵の堰請負米が未払いであったのを、これを年二〇俵あて、二〇年間で支払う。また天明六年からの請負米を年に二百俵にすることで、一応内済取扱いが成立した。
しかし、文化二年(一八〇五)二月に再び堰請負をめぐる争論が起こっている。