これに対して相手側からは、「以前に、善太郎の父庄助が請負ったこともあるが、寛政元年(一七八九)からは、八幡村庄兵衛・草刈村太左衛門伜太十郎が、また寛政十二年(一八〇〇)から文化元年(一八〇四)までは、八幡村庄兵衛と茂呂村五郎左衛門が請負ってきたのであり善太郎は、その下請けにすぎない。また善太郎では、急な出水のときには、それを防ぐ手だてもない」などと反論している。
生実村弥兵衛などの仲介もあり、同年六月に、次のような条件で解決した。
一 文化三年(一八〇六)から四年間を請負と決め、堰代は米四斗入三百俵あき俵は三千俵を七カ村より差し出す。
七カ村とは当時堰水を利用していた八幡村、菊間村、高島村(以上市原郡)と生実村、浜野村、村田村、古市場村(以上千葉郡)の計七カ村である。
二 善太郎半分、茂呂村五郎左衛門、八幡村庄兵衛(後見人金兵衛)の二人で半分の割合で請負う。庄兵衛の後見人金兵衛が病気なので、回復するまで、善太郎が庄兵衛分もうけもつ。
破損、再普請などの際、善太郎が資金面で困るときは、生実村弥兵衛が保証する。
三 堰請負人より頼んだ草刈村人足には、一人につき銀弐分あてだす。人足に出たら請負人の指図どおりに働く。
急雨の際は、前々のとおり、無賃にて昼夜に限らず工事に従事する。もし二月中に堰普請をせず、また賃銭支払いが滞った場合には、この工事に出なくても、請負人や七カ村側でも不服を申したてない。
四 堰請負人は、七カ村で人を選び草刈村では文句をつけない。
この規程によれば、草刈村住民で、堰普請で賃銭をもらっている者は、大雨の際の堰の維持作業が義務づけられていたことがわかる。
また水下村の七カ村は、毎年米三百俵を負担して堰の維持をしたわけであるが、草刈村と、水下の七カ村の利害が必ずしも一致せず、ここに堰留請負をめぐっての争論が、しばしば起こったのである。
なお用水慣行についての史料が充分でなくよくわからないが、前述した文化八年(一八一一)の南北生実村の用水争論で、千葉郡側の用水路では、まず北生実村が七日間水を引き、その後一一日間は、村田村、浜野村、古市場村、高島村で引水すると決まっていた。
文化三年(一八〇六)には、水下村々が、自普請をする場合、堰境、土取場がはっきりしなくては困るとして、絵図面が作成された。四―一図がその概観である。
4―1図 草刈堰と土取場見取図(文化3年5月作図)
このように草刈堰の場合、堰の管理、維持を行う請負人と、用水をうける村との間に度々争論が起こっており、用水堰が、使用する村々から離れている場合の、維持管理の難かしさを示している。