近世初期には、東京湾に注いでいた利根川を、江戸を洪水から守るために東流させて銚子の方面へ流した工事は、一七世紀中ごろのことである。
元和七年(一六二一)に、まず利根川本流を、埼玉県の栗橋地先で、「新川通」の流路を開削して渡良世川に合流させた。承応三年(一六五四)には、常陸川に接続して、太平洋へと放流することになったのである。当時常陸川の下流は、香取浦という大きな入り海になっており、霞ケ浦・長沼・印旛沼・手賀沼はいずれも、この香取浦に連なっていた。常陸川というのは、いわばこうした湖沼・入り海の連なりと考えてよい地形であった。
利根川とつながっている印旛沼は、増水の際は、一種の調整池としての役割を果たしていたが、洪水に際しては、沼の周辺部が、氾らんによって大きな被害をこうむった。
印旛沼の掘割工事は、放水路をつくることにより、こうした水害を防ぐということを中心的な目標にし、享保・天明・天保と三回にわたって行われたのである。工事の内容も最初、民間から次第に幕府の工事へと規模も大きくなっていった。
その間に、治水を中心にしながらも新田開発、新しい水運路への利用など、江戸時代における総合開発的様相をみせている。
そしてこの掘割工事の水路として開削が計画された場所は、印旛沼の西端に当たる千葉郡平戸村から横戸村、柏井村、花島村、天戸村、畑村、検見川村に至る路線であった(四―二図参照)。
4―2図 印旛沼掘割路図 (『印旛沼開発史』上巻第1部P.109所収)