享保の工事

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 享保九年(一七二四)に、平戸村の染谷源左衛門が、水害防止計画をたてたことに始まる。
 幕府は、この計画に六千両の資金援助を与え、工事を行わせたが、結局失敗した。このときの工事については、「疎水路の路線が、甲村は右往、乙村では、左往と、掘削が、区々に屈曲がはなはだしく、疏通を妨げられた」という記録があり、民間人による工事のむずかしさもあったとみられる。