天明の工事

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 安永九年(一七八〇)に関東地方に大水害が起こったが、印旛郡総深新田の名主平左衛門、島田村名主治郎兵衛から願書が出され、それをうけたかたちで、幕府も積極的に調査にとりかかった。
 天明二年(一七八二)から工事に着手した。老中田沼意次が積極的に進めたという。
 このときの工事は、印旛郡安食地先に堤を築き、利根川と印旛沼との間に締切門樋をつくり、利根川の増水に際してその樋門を閉じ、水害防止を計画した。しかし、この樋門も大水で間もなく崩壊し、また、天明六年(一七八六)田沼意次の失脚によって、開削工事は中止された。
 この期の工事では、平戸村、検見川村間は、直線的に掘削工事が進められている。花島村地内の泥土層が、大変な難工事であった。