天保の工事

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 天保十一年(一八四二)に、勘定所役人が、天明度の古渠を中心に調査を行い、その報告書には、次の四点が指摘されている。

一 平戸村より検見川海面まで、長さ九五九三間、里数四里余である。

二 古堀普請入用に、一三万八二一六両、ほかに七万両用意する。

三 古堀を再興すれば水道(みずみち)が通じ、通船もできるが、勾配が少ないので順流する程、水が流れないのではないか。

四 花島村地内では泥土が深く、天明期の工事でも、途中で中止したほどの難所である。


 こうしてみると、天保の開削工事の目的は、水害の防止とともに、水運に利用するという構想があったようである。江戸から、検見川・印旛沼・利根川・銚子の路線は、それまでに利用されていた江戸・江戸川・関宿をまわって利根川・銚子というコースよりも距離が短く、水運の便によいという考えである。
 老中水野忠邦は、天保改革に前後して、印旛沼開削工事をとりあげ、天保十四年(一八四三)六月から、工事に着手した。このときの工事は、幕府が設計、監督し、工事を各藩に命じた。この工事は四―一四表のように五藩に命じられた。
4―14表 印旛沼掘割区分
場所距離坪数小屋担当藩入用金額
平戸村~横戸村2里8町61,600萱田村水野出羽守(沼津5万石)63,144
横戸村~柏井村18町15,400横戸村酒井左衛門尉(庄内14万石)117,050
柏井村~天戸村10町8,400柏井村松平因幡守(鳥取32万石)61,500
天戸村~畑村1里8町30,800天戸村林播磨守(貝淵1万石)40,000
畑村~検見川村30町16,800馬加村黒田甲斐守(秋月5万石)10,000

(『印旛沼経緯記』外篇p139.『印旛沼開発史』巻1上p555~556)


 各藩の費用は、四―一四表の金額より、はるかに多かったようである。
例えば、
 
  水野様
 一、五万五千両位 土坪積
  外に一万五千両 水道具等之入用
  同一万両    小屋場諸具脚

(『続保定記』六三ページ)


と沼津藩の場合八万両となり、表の金額より、二万両多い。そして、貝淵藩の場合でもやはり二万両位多くかかり、「御金いかがいたし候ても此の上出方これなきと申上候由、甚(はなはだ)もって御難渋の趣に相聞え候」と、工事を命じられた諸藩にとって、大変な財政的な負担であった。
 このときの難工事は、因幡鳥取藩の担当した第三区にある、花島村地内での泥土層であった。
 ケトウという泥土の場所が多く、これは大変に難かしい場所である。馬糞のような土で、水気が多い所では湧き出し、ただどろどろして、鍬にも、すき(犁)にもかからず、ただ水のようにくみ出すより方法がない。その上いくら掘っても、一夜のうちに泥土が湧き出て埋り、また五、六間、一〇間、一七、八間も脇の方の山や畑、田が崩れて、掘った部分へなだれ落ちてくる。

(『続保定記』六二ページ)


 第二区を担当したのは、山形庄内藩(酒井一四万石)である。この工事を命ぜられた庄内藩では、この工事人足を領内各村から集めている。監督の武士・人足農民・大工・鍛冶屋など一、四六三人の一行が、はるばる山形から、一三日間の道中で、七月十九日に現場に到着した。このときの農民は、夜具・鍬・鎌・蓑(みの)・笠(かさ)などを持参しなければならなかった。作業現場での住居は、仮小屋であり、人夫の小屋は、ころ板敷・藁(わら)・莚(むしろ)で、周囲は簀囲(すのこかこい)、屋根は、草や萱ぶきで、夕立ちが降るとひどい雨もりであった。簀囲のままでは、夜中風通しがよいため、やっと藁(わら)で周囲を囲む始末で、蚊・あぶ・むかで・とかげ・ありの類は日夜人々を悩まし、大変な生活環境であった。食事も充分でなく「当所は海辺の近くであるが、魚類がたくさんでると考えていたが案に相違して、生魚といえば、このしろを煮付けたものがはじめてで、干魚もない」という状況であった。こうした状況の中で、工事が中止になるまでの間に、庄内藩人足のうち一九人が、死亡している。
 この天保工事も、天保十四年九月十二日に、老中水野忠邦が罷免されると、同月二十三日に、幕府は諸大名への御手伝普請を免じた。そして十一月になると、幕府役人にも、残務整理をして江戸に帰るよう命じている。当時、あと二カ月間の工事が行われていたならば、全部完成したはずなどともいわれていた。
 その後このときの堀を用いて、検見川村から、大和田橋まで、五大力船が通って、肥料、薪、甘藷の輸送をし、また佐倉藩の年貢米を、寒川村の御蔵へ運ぶのに利用したという(『印旛沼経緯記外篇』一六八ページ)。
 こうして江戸時代に、三回にわたって試みられた印旛沼の放水路工事は、三回とも工事は途中で中止され失敗に終わった。
 以上みたように、三回の工事は、いずれも平戸村から検見川村への路線が掘られているが、ほかに、鹿島川から千葉町寒川への路線も考えられていたという。この構想は、維新前に既にあったといわれる。(『印旛沼開発史』第一部上巻一一二~一一四ページ)
 この路線は四―二図に示したように、鹿島川から物井、和良比、川野辺新田、東寺山と原の谷間、寒川と全長九、九八〇間で、当時佐倉藩の外港としての役割をもっていた寒川浦を、印旛沼に結びつける構想であった。明治に入ってから、加藤久太郎も、「工事は困難であるが、成功すればまず第一位を占むべきと思われる。」と述べており、これは水運による経済的価値からの考察であった。
 
 こうした大工事は、いったい地元の農村にどんな影響を与えたのであろうか。天保の工事でも、大体川幅百間をとっており、田畑で掘削用地にあてられたのもあったはずである。
 田地の潰高(つぶしだか)、八千石余の由、その上畑場所、土置、土揚等になり候えば、多分の潰地に相成り、この上、御普請成就これなきに候えば近辺の者ども、いかとも食いつぐべき手段これ無く、よって持主の百姓等江戸へ出、愁訴いたし候趣も相聞え候

(『続保定記』六四ページ)


とあり、周辺の農民が、人足として働いていた様子もうかがえる。
  (この項については『印旛沼開発史』第一部上巻を参照)