第一項 佐倉藩の藩政

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 佐倉藩は天正十八年(一五九〇)家康が江戸に入って、三浦義次が一万石で入部以来徳川一門の武田信吉(四万石)・松平忠輝(五万石)、その後幕領となって、青山、内藤両氏が代官として支配し、慶長十二年(一六〇七)に小笠原吉次(二万八千石)が入部し、以後譜代大名領となり、幕末に至っては、川越・忍・岩槻などとともに老中の城地とされた。
 千葉は、この佐倉藩の領内に含まれ通称城付六万石の中で、下総国印旛・千葉・埴生の三郡に跨る二〇五カ村の六万三千余石中のひとつに入っている。ただしこのほかに海上・匝瑳の両郡の所領も入っているともいわれている。
 佐倉藩の城付所領は次の四つに大別されていた。
  1. 一 沼付村々――印旛沼沿岸の村々で夏秋の印旛沼の増水で稲作に被害を受けることもあったが、水上交通の上では重要な所で、沿岸一帯の河岸場は物資の出入の拠点でもあり、また軍事上からも重視されていた。
  2. 二 野付村々――佐倉牧・小金牧の野馬放牧場に接する村々で、野付村とは、広義には牧に接続していなくても野駒捕、その他普請(ふしん)に負担をかけられた地域をさしている。
  3. 三 海付村々――寒川・登戸等の数カ村で、この村々は小港ではあったが、佐倉の外港ともいうべきもので、ここから江戸への廻米、あるいは江戸からの物資の移入等、交通、運輸の面から重要で、延享三年(一七四六)に堀田氏が佐倉へ転封されたとき、藩主・家臣が喜んだ原因が単に佐倉が山形より温暖であるとか、地味が肥えていて物資の生産が豊かであるということよりも、寒川、登戸の港を経て江戸への廻米により収入が多くなることであったとも伝えられている。それ故に佐倉藩政にとって登戸、寒川ひいては千葉という地域そのものの存在が大であったことを知ることができよう。
  4. 四 城辺の村々――佐倉城下を含むその周辺の村々

 現在の千葉市及び周辺の地域が佐倉領内であったことを示すもののひとつとして、元和六年(一六二〇)次のような黒砂村(千葉市黒砂)への年貢割付状があり、これは、佐倉領内で現存するものとしては、最古のものと『佐倉市史』が記している。当時の佐倉藩主は土井利勝であった。
 また、堀田氏の代に至って、藩政上から家臣団の構成をみると、前期堀田氏寛永十九年(一六四二)~万治三年(一六六〇)の場合、家老は四名で千石~三千石の扶持が与えられていた。地方(じかた)支配は奉行と代官によって行われ、奉行は郡奉行二名・町奉行二名・房州奉行(安房国勝山)二名の計六名で、その下に代官が置かれ、代官は領内を五つに区分して「組」を作り、各組に二名ずつの代官がおかれていた。その組分けは次のとおりである。
 城付村々の区分 佐倉領
 鏑木組
 本町組
 酒々井組
 千葉組
 土浮組
 
 またこのほか代官を一名ずつ配したものとして次の組々があった。
 布川組・東金組・相馬組・小能組・川崎組・伊野組
 これ以外に房州にも代官は置かれているが、「組」の名はつけられていない。この各組に分けての統治は、後々まで藩政の基盤として活用されている。
 
 申の年(元和六年)納むべく年貢わり付けの事(黒砂村)

黒砂村年貢割付状(元和6年)
佐倉領で現存する最古のもの(『佐倉市史』上巻より転写)

 例えば慶安二年(一六四九)の「千葉組内田村丑御歳成納むべき割り付けの事」にみられるように、年貢割付状のなかに「組」の名が見られる。それは前にも記したごとく、藩政において「組」が実際にどのように、活用されたかをみる手がかりとして重要であろう。また「組」を構成する因子ともいうべき村々について見るならば、先に引用した「千葉組、内田村」は、慶安元年(一六四八)の時点では鏑木組、翌二年には、千葉組に所属している。このような事実から各組を構成する村々は、なにかの原因で組替えも行われたことを示している。
 また藩主が変わっても、佐倉領としての異動は余りなかったようである。このことを示す史料として貞享四年(一六八七)、佐倉藩主が戸田忠昌であった時代の千葉寺と寒川両村の村境の裁許状が存在している。
 貞享四年 佐倉領千葉寺・寒川両村村境争論裁許状(筆写史料による)
 下総国葛飾郡千葉寺村、同村佐倉領百姓新畑論ならびに同郡寒川村境論裁許の条々、
  1. 一、千葉寺村百姓申すおもむき、先規より寒川村境の儀は、鼡川限りのところ、去年にいたりて、千葉寺村浜辺数十間余内へ新川堀り候旨これを訴え、寒川村百姓答え候は、八カ年已前高波の節、鼡川押しうまり、寒川地内へ流れ入り候につき、先規の川筋に堀りかえ候旨これを申し、糺明をとげ候ところ、寛文十年両村海猟論のとき、絵図の面鼡川の流れさき奉行印判を加え書き候裁許に、両村境の儀鼡川に限るべく、但し寒川村の者、鼡川高波にて押しうまるにつき、古川筋堀りかえ候由これは申しがたく、川は流れつかせの大法の間、寒川村の申すおもむき立ちがたき条、新川これを埋めべきこと、
  2. 一、千葉寺村内新田百姓次郎右衛門申す旨は、私持分の地たて三間、横九間の処、佐倉百姓市郎左衛門新畑開き候由これを訴え、絵図面点検せしむるの処、論所の地並木柳これありて、地境たしかに相分る上は、次郎右衛門持地たる段紛れ無き条、すべてこれを進退すべき事、
  3. 一、寒川村ならびに千葉寺村佐倉領百姓裁許旨に背き、新川埋め、新畑開き候儀不届に付き、過怠として庄屋壱人あて牢舎せしむる事、

 
右の趣相守るべく候、よつて後鑑のため絵図之面、千葉寺の内佐倉領と同村新田地境墨筋を引き、おのおの印判を加え、双方え下し置き候間、違失すべからざるものなり、
     貞享四年
        丁夘
         正月廿五日
                    仙 和泉
                    彦 伯耆
                    大 備前
                    北 安房
                    甲斐飛騨
                    (一枚欠損)
                    板 内記
                    大 安芸

 この史料をみると、第一項の文面中に「寛文十年両村海猟論のとき、絵図の面鼠川の流れさき奉行印判を加え……云々」とある。寛文十年(一六七〇)は、松平乗久の時代のことであるので、これによっても、この地域がずっと佐倉領内であったことがわかる。また裁許の資料として、藩主が松平・大久保・戸田と替わっていても、それらに関係なく保存されていることは、佐倉藩の藩政の特色をみる手がかりのひとつであるともいえよう。
 延享三年堀田正亮が佐倉に入部して後期堀田氏の藩政が展開する。この堀田氏は、前期堀田氏の当主堀田正盛の次子正俊の系統である。正亮は佐倉に入部すると、村高百石につき米一俵二分五厘の割合をもって窮民救済のための「夫食米(ふじきまい)の制」を設けたりしている。
 佐倉藩領の一部として、後期堀田氏の統治下にあった千葉の町は、宝暦十一年(一七六二)の指出帳によってみると、概略次のようなことがいえる。
 寒川・登戸の港を含み、現市域の中心部から加曽利地区は、佐倉藩戸田能登守の領するところで、石高は大体一万石程度あった。これらの中でも、大宮・加曽利の村高が大きく、千葉村は合計一、〇七六石で、このうち院内・祐光・栄町・要町を含む地域が妙見の寺領で約二百石、来迎寺領が五〇石、大日寺領が一〇石程度含まれている。
 また、現在の市の南部の生浜地区は、生実藩で大名森川紀伊守(一万石)の領地であった。
 また佐倉藩は千葉を中継商業の中心として重要視していた。ここで扱われたものは、木炭と米穀で、特に木炭は「佐倉炭」として、江戸に送られた。しかし佐倉藩の財政がこの中継商業によって潤沢になったとはいえない。むしろ中継商業に従事する商人が利益を受け、藩財政は充分には満たされなかった。このような面から見れば、藩政面からみた商・工業政策は、これに従事する町人を保護したとはいいえても、これによって佐倉藩が利益を得ることのないまま明治維新をむかえてしまったといえよう。