第二項 生実藩の藩政

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 下総国生実に森川重俊が入部したのは、寛永三年(一六二六)のことであった。重俊は、二代将軍徳川秀忠に仕え、慶長十四年(一六〇九)に下野国内に三千石を与えられたが、後に除封され、寛永三年に生実藩一万石の領主になった。寛永九年(一六三二)将軍秀忠が死去したときに殉死した。その後、子孫は明治維新に至る約二四〇年間この地を領有した。房総における大名では、もっとも転封の少なかったもののひとつであったといえよう。
 森川氏が領有した地域は現在の千葉市域の中では、平山・誉田・辺田・大金沢・有吉・生実・南生実・浜野・椎名崎・古市場・刈田子・小金沢・富岡・茂呂・落井・中西などが含まれている。いずれも千葉の南部の地域で村高の合計は、七千三百石であった。森川氏は、千葉のほかに匝瑳郡・山武郡内に六カ村、相模国に四カ村の土地を与えられていた。

森川氏代々の墓所(千葉市生実町重俊院)

 森川藩の治世下にあって、どんな農民生活が展開したかを知る史料として、たとえば明和九年(一七七二)三月の下総国千葉郡南生実村五人組帳があり、これによると農民生活をかなり厳しく規制していることがみられる。またキリシタン禁制と関連して安永三年(一七七四)四月に作られた宗門改め帳の前書の部分にも森川藩の藩政の一部分がみられよう。
   宗門改め帳前書(生実藩)
   指上げ申す一札の事、
  1. 一、切支丹宗門御制禁の旨、毎年御改め仰せつけられ候趣、堅く相守り申し候事、
  2. 一、五人組の儀は、申し上げるに及ばず、郷中切支丹宗門の者御座なく候、ならびに邪宗門の類族壱人も御座なく候事、
  3. 一、当村中、男女大小人は、御帳に附けざる者壱人も御座なく候事、
  4. 一、日蓮宗のうち、悲田、不受不施の者壱人も御座なく候事、
  5. 一、切支丹、ならびに邪宗門は申上げるに及ばず、惣じて宗旨につき、少しもあやしき様子の者御座候ハゞ、申上げべく候事、

 右の趣相背くにおいては、何様の曲事(くせごと)にも仰せつけらるべく候、後日のため依つて件の如し、
   安永三午年
     四月                 南生実村
                      組頭 彦左衛門
                      〃  与市
                      〃  喜右衛門
                      〃  次右衛門
                      〃  彦兵衛
                      〃  太郎右衛門
                      〃  平六
                      〃  平左衛門
                      〃  庄五郎
                      名主 小兵衛
   石井嘉内 様

 このような種類の宗門改め帳は江戸幕府のキリスト教禁止政策と結びつき、併わせて非公認の宗教信仰禁制まで含めて、これを徹底させる意味から村ごとに、毎年作成されたといわれている。記載方式は、一定ではないが、戸主以下、家族、奉公人に至るまで、その名前と年齢と所属寺院が記述されていて、戸籍の役割りも果たしていた。
 ここにあげたものは、前書の条々で全部で五カ条からなる記載事項があり、もしも、これにそむく者があったときにはどんな処罰でもうけると記している。あて名の石井嘉内は生実藩の役人であろう。
 また当時の森川藩領の領民の生活の一端をみてみよう。
 村方相続の儀に付南生実村惣百姓取極書
   永代取極申印證の事

一、南生実村の儀は、先年より連々困窮仕り、御田地も多分越石ニ相成り、潰百姓(つぶれびやくしよう)相増し、次第に人少く農業手常(ママ)も行きとどかず、御上納は勿論、御通御用御役所御用諸人馬に指支(さしつかえ)、困窮斗相募(ばかりあいつのり)極く難儀ニつき、先名主嘉左衛門よりも、村方行立ての儀、精々そのもと様え御頼み申し候えども、凡そ成らざる事故、御考のみにて是迄御延ばし罷(まかり)在り候所……(以下略)


   文化十三(一八一六)年丙子年十一月

 江戸時代も後半期になると、幕藩体制もその政治上の矛盾が大きく露呈して来ている。右の史料によるまでもなく、潰百姓(つぶれびゃくしょう)が続出し困窮者が増大していることを訴えている。
 村方困窮の儀に付、南生実村取極め議定書、
   永代村法議定の事
 当南生実村の儀は、五拾年以来村内至つて困窮致し、家数、人数減少につき、田畑仕作人馬諸役の勤方等ニ村方甚難渋いたし、近村え譲渡し置き候田畑高、凡そ三百七拾余石、其上又々近年潰棟多ク相成り、残高五百余石、これに依り高前の百姓は田畑入附ニ年々難儀致し、尤(もつとも)近年隣村ニ下作人これある故、田方ハ下作人も大方はこれ有り候え共、畑方の儀は入附ニ一統難儀いたし、奉公人抱(かかえ)作り候ニも金銀通用せざる故給金ニ差支え、田畑譲渡し候ニも居村他村共ニ相手これなく、月々の日雇いたし、田畑仕作致し候ニも日雇人これ無く、高持小前之百姓共金銀通用一切これなくニ付、物之揚ケ下ケにて多分之損失いたし、万端跡引(あとひき)に相成り、此度渡世家業行き届き難く、小前の百姓は年々ニ潰(つぶ)れ、高前の百姓は次第に困窮致し、右之振合ニては大小の百姓一統友潰(ともつぶれ)の時節に相成り、……(以下略)
   文化十四丁丑年二月
 このような二つの史料に共通してみられることは、いずれも森川藩治政下の農民の困窮の実態である。江戸時代、余り生産性の高くない土地にしがみついて、一生懸命田畑の耕作に励んでも限界は見えている。次第に困窮して、このままでは大小の百姓ともども友潰(ともつぶ)れになると訴え、救済を求めている。これに対し森川藩がいかなる対策を打ち出したかは、明確にすることはできないが、散見し得る資料で見る限りにおいては、救済金を貸し出しているようである。しかしこれが農民の窮状をどの程度救うことになったかは疑問である。なぜならば、この時期には為政者側自体が財政窮乏の立場にあったのであるから、むしろ救済を目的とするよりも、救済金として金銭を貸与して、これになにがしかの利子を付加して取りもどそうということであって、金銭を貸与された農民側の生活が無条件に豊かになることは決してなかったであろう。