第三項 藩政の推移とその特質

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 千葉を中心にして藩政の推移を論ずると、それは当然のことながら、千葉が佐倉藩領であったことから、主として佐倉藩政の推移を中心に論ずることになろう。
 佐倉藩政のところでも少しふれておいたが、佐倉藩の領内支配と取締り機構は、藩の代官による全知行地の分担支配と「組」と呼ばれる村々の集合体が村々相互の横の連絡、協議を行っていくという二重構造性をもっていた。これを、「五郷取締制度」といっていた。この制度の始まりはいつか判然としないが、関連史料で見る限り寛延四年(一七五一)にすでに存在していたと『佐倉市史』に記されている。千葉市域の場合、この組のシステムと関連のありそうなものとして、慶安二年(一六四九)の「千葉組内田村丑御歳成納むべき割付の事」という文面中にすでに、千葉組の名がみられている。佐倉領は、藩主が一四回も交代しているがこのような統治方式が、一挙にできたとは考えられない。藩政上有効な統治方式は、たとえ為政者が交替しても、代々残され、次第に年をおってできあがったと考えることが自然であろう。
 また佐倉藩は、藩政の上において他藩に見られるような治世上の複雑な規程をもたなかった。あえてこれをとりあげるならば、「佐倉藩の定書」ともいわれる「条々」三カ条であろう。これは佐倉藩政上の重要なバックボーンとなっていた。文政改革の推進にあたった佐倉藩主堀田正愛は、この三カ条の精神を忘れてはならないことを強調している。
 延享三年、後期堀田氏の時代に入って以来下総での繁栄の地といえば、城下町は佐倉、商業は佐原で、江戸への交通路は利根川であり、千葉は上総街道にあり、水路は内湾をひかえ比較的利用されていたが、陸路による交通が開け、千葉が交通上の要衝となったのは藩政の末期になってのことと思われる。
 それまで、千葉は佐倉藩領内の米の生産地として、成りたっていた。
 かつて千葉町は、千葉氏没落後、海辺の一寒村となってしまっていたが、それが次第に発展しはじめたのは、八代将軍徳川吉宗のときに、堀田正亮が、佐倉に入部して以来のことである。その原因は、単に農業生産力の高まりのみではなく、房総の交通条件などの上から、千葉が宿場町的機能をもつと同時に、房総で生産される農業生産物を、江戸に移出する港町的機能をもってきたためであろう。その背景に幕閣の中枢にあった堀田氏の存在もかなり大きいものであったと思われる。
 後期堀田氏の時代になると、千葉町とその周辺一八カ村が、その藩政下におかれている。当時江戸は人口約百万以上をもった世界最大の都市ともいわれた。その隣接地からは、年々莫大な消費物資が搬入されていた。佐倉からは主として、木炭、米穀が、千葉町を通して登戸・寒川の港から江戸へ送られている。

4―4図 堀田藩時代千葉の村高の大きさ(延享3年)

 代表的物資として、「佐倉炭」があったことは前に述べたが、初期には、藩営で、生産者が一俵でも他領・他藩と売買することは禁じられていた。生産された炭は、すべて都川河畔の御殿前におかれた藩営買上所で買い占められ、江戸に送られた。貯蔵倉庫は泉水村におかれ、郡方奉行支配下の手代によって管理され、販売は、千葉町木炭商が請負っていたという。しかしこの販売ルートの上からは、千葉町木炭商が、中継利益を得ることは甚だ困難であった。そこで、中継利益を増大させるため、千葉町木炭商は、江戸炭槙問屋に荷送りをせず、直接諸大名の藩邸や鍛冶屋組合などに、小売の形式で販売するようになった。そこで江戸炭槙問屋組合は、町方奉行に訴えて、千葉町木炭商の、法令違反の販売方式の禁止を願い出た。千葉町木炭商人の立場は甚だ不利であったが、このとき老中が更迭されて、堀田相模守(正睦)が就任した。江戸炭槙問屋は、堀田氏をはばかって、訴えをとり下げた。このことは、前に述べた堀田氏の、表面に出ない影の力があった一例であるともいえるであろう。
 また米穀は、寒川に堀田藩の年貢米の倉庫があり、千葉町・登戸・蘇我・検見川に海運業者があって、五大力船を使って上総米・下総米が江戸に送りこまれていた。後に安政二年(一八五五)の大地震で、米価が高騰し、窮民に救米を出したとき、千葉町の米屋の数は八〇軒余りもあったといわれる。
 また米と関連して、酒類の販売高も、当時の千葉町の様子を知る重要な手がかりであろう。寛政五年(一七九三)に、千葉の裏中町(吾妻町)の酒屋忠蔵が、佐倉藩の命によって、酒類の売上高を届出ている。その控えによってみると、総計三九九駄片馬と半樽二斗六升に達している。一駄を平均七斗二升と見積り年間四百駄で二八〇石となる。当時五百戸程度の宿場町、港町の販売量としては、非常に高い数値を示しており、これらからも人の出入がはげしい町の活動的な一面を知ることができるであろう。
 このような千葉町の繁栄は、藩政の上からは好ましくない面も生じたことは当然であろう。
 直接千葉町を対象としたものではないが、宝暦九年(一七五九)十二月に佐倉藩は、「町内へ申付候書付」と題して、きびしい定め書きを出している。
 
  宝暦九卯年十二月町内へ申付け候書付
  1. 一、去る四月中名主・組頭どもはじめ町人ども、過分の衣類着用仕るまじくの旨、申付けおき候えども、猶以て左の通り相心得申すべく候、
  2. 一、町人ども身上宜しき者にても、平日奢りがましき儀仕らず、分限不相応の家作等は仕るまじく、衣類は妻子どもまで、木綿に限り着用仕るべく候。ただし女の帯は絹紬ニても苦しからず候事、
  3. 一、町々名主組頭の儀は、御用筋大切に相務め、身上よろしき町人ニても不相応の遊芸をならい奢りがましき儀仕らせ申すまじく候、もっとも親に不孝、又は町法を相背く我儘者、或いは男伊達致し候者これあり候ハゞ、早々役所へ訴え出べく候、もちろん町人どもえ対し依怙贔負(ひいき)仕らず、急度相慎しみ申すべく候事、
  4. 一、町内にて口論また騒動がましき儀これあり候ハゞ、前々申付けおき候通り早速取鎮めべく事、
  5. 一、公事訴訟これある時、名主・組頭捨ておき候儀はよろしからず候、右躰の儀差置き候ては、町人ども難儀に及ぶべく候間、差押えおかず、得と吟味を遂げ候上ニて、奉行所え申達すべく事、
  6. 一、日待・月待と申立て大勢集り、博(ばく)ちならびに諸勝負等仕り候義これあるにおいては、名主・組頭・五人組まで吟味の上急度(きつと)申付けべく候事、

 右の通り銘々申し聞かせ、急度相守り申すべく候、
 佐倉藩では、在方には、度々このような種類の触れ書きを出しているが、城下町を対象に、このような触れ書きを出すことは珍らしい。
 この内容を、別の角度からみると、町人の中には、かなり経済的な力を蓄えて、富裕な生活をする者が出てきたことを裏付けているともいえよう。それゆえに、かなり派手な人目をひく身なりや、ぜいたくな暮しかたに対し、きびしい制限を加えたものとみることができるであろう。
 このように富を蓄えた者がある一方、藩の財政は苦しかったようである。その原因は、藩主堀田氏が、何回も転封をされ、そのために、多額の経費を必要としたことにあると考えられる。また更に当時わが国の経済体制が、貨幣経済へと移行していきつつあったことが原因であろう。
 更に、この触れ書きが出された以後をみても、当時藩の経済の基盤ともされていた農業が、つねに天候に支配され、風水害、旱害などの天災により、収穫量が大きく左右された。明和三年(一七六六)には、佐倉藩の収入が二万二千石もダウンしてしまった。そしてその後も、安永九年(一七八〇)、天明元年(一七八一)と以後五年近くも凶作が続いた。
 このため佐倉藩領、千葉においては、次のような村方騒動がおこっている。
 天明三年(一七八三)十二月、千葉郡を含む藩領のほぼ全域において、強訴が行われている。原因は飢饉による年貢の減免であった。
 天明七年(一七八七)五月、千葉町及び登戸・寒川において打ちこわしが行われた。原因は、米の高値による生活の圧迫が主なものであった。
 この時期は、全国的に凶作が続いた「天明の飢饉」のおこった時であり、特に関東、東北の被害がひどかった。全国で九二万の人口減少があったともいわれ、老中田沼意次が失脚したのもこの飢饉が引き金となったともいわれている。
 前にあげた天明三年(一七八三)の強訴を『佐倉藩堀田家年寄部屋日記』は、次のように記している。
 
  天明三年の強訴の記録
  佐倉藩堀田家年寄部屋日記
  (表紙)
  「天明三癸卯年従七月至十二月日記
           年寄部屋    」
  十二月廿九日

一、香宗我部左中達す、埴生郡村々百姓共追々罷り出候由、下目付申し達し候、千葉の方よりも罷越し候風聞御座候、これにより大手田町御門え御徒目付、下目付申付差し出し申し候、暮時過、安左衛門相越申し聞き候ハ、埴生郡村々百姓三、四百人斗(ばかり)も追手御門外より新町辺迄も相詰め候、千葉之辺より参り候は沙汰ばかりに御座候、途中に於て取立手代さし留め置く儀御座有るべくやと存じ奉り候、印西方よりも瀬戸川端辺迄も罷越候と申す儀御座候、右之通りニて代官共差し出し申し候迄にも之儀申さず、相鎮めべくやにも候えども、埴生郡村々も未だ追々相詰候様子之様ニ相聞え候間、品に寄り代官差し出し取鎮めさせ候義もこれあるべく候、いずれ昨夜取鎮候事故(ことゆえ)、此度も相鎮べく存じ候えども、いまだ飛脚出立いたさず候ニ付、右之段追て申入候、

(以下略)

(『厚生園所蔵文書』)


 この史料によると、天明三年(一七八三)十二月二十九日、埴生郡の村々の百姓が、追手門に押し寄せたことが記されている。『佐倉市史』及び関連の記録によれば埴生郡は、赤萩村、成田など一五カ村、印旛郡で尾上村、新橋など七カ村合計二二カ村の村の人々で、藩当局はこれを重大視して、重臣若林杢左衛門・庄田孫兵衛・岡源次兵衛らが郷方元〆安立安左衛門らをして百姓の説得にあたらせたが、結局これは、聞きいれられず、代官広田十郎太夫・山本源八・山泉佐助らにこれを鎮撫せしめることになる。
 代官たちは、百姓の意向を聞き善処するといっているが、代官手代への成田筋村々の願筋は、年貢不納分を一〇両二七俵替の安い石代相場の金納でなく、米納でしかも来秋から一五年賦でということである。その上夫食の拝借も願出たが藩側では拒否した。右の村々百姓は夜に入り追手門まできたが、手代から不納分の二七俵替石代金納仰せつけを代官が請合うと諭したので、一応村方へ引揚げた。
 この時点では、千葉方面の農民も押し寄せて来るらしいという風聞が伝わっているが、それは記録に見られず、天明四年(一七八四)正月に入って、現在の四街道、千葉、寒川方面の農民の動向が、不穏になり、藩当局は正月三日、寒川筋に、手代二人、足軽四人を派遣し、これは一応平穏になった。その後、この騒動の中心となった人物は、処罰されたが、余り苛酷な事後処理は、行われなかった。また農民側も、このような救済請願の行動をおこしても、一時しのぎはできても、根本的に、この苦しい生活から脱却することは不可能であった。
 また為政者側に立つ武士といえども、その生活状況は甚だ苦しいものであった。堀田正亮の代のときに、幕府から一万両を借り受けて、家臣たちに貸し与えたこともあったが、これも武士の困窮を救う根本対策とはならなかった。佐倉藩は文政四年(一八二一)に、家老若林杢左衛門・年寄役一色善右衛門・向藤左衛門を中心に、藩政改革を実施しているが、この時点での佐倉藩の負債は二〇万両に及んでいたという。そのため、これら負債の利子の返済すら不可能に近く、それ故に、藩財政の年間総収入を三分して、家臣の俸祿・藩費・負債の返済に充当するという方針をたてたが、年貢収入の増大があまりない中で、支出経費が増大するばかりであるから、財政難がつのるばかりとなり、家臣の俸祿すら全額支給は不可能となっていった。
 このような実態の渦中にあっては農民が、いくら佐倉城下に押しかけたところで、結果はわかりきったことであり、領内の農民で、零細な百姓は潰れ百姓となり土地を失い、そのあげく、農村人口が減少の一途をたどることは、必然的なものであったといえよう。こういう農村の実態は、単に佐倉藩領のみではなく、生実藩でも同様の傾向があったといえる。
 前にあげた佐倉藩の「触れ書き」に示されるように、町民の着用する衣服にまで規制を加え、倹約を強制したり、各種の名儀を付けて冥加金、上納金を出させても、このことは逆に、税外負担が、より一層領民の生活を圧迫するだけで、土地を捨て逃散し、あるいは博徒の群れに入るような結果を生み出す原因をつくるぐらいのものであった。
 嘉永五年(一八五二)十月佐倉藩は、領内の住民に対して「教諭」なるものを発している。これを見ると当時の領内の実態がいかなるものであったかということが、だいたい見当がつくので、次に引用した。
 
 佐倉藩の「教諭」
      教諭
 近来無宿共長脇差を帯び、また槍鉄炮持ち歩行、在々所々において狼藉におよび、かつ右を見真似て、百姓町人どものうちにも長脇差を帯び、同様の所業に及ぶものこれ有り、これまで追々御仕置も仰付けられども、なお相やまず増長致し、党を結び押歩行するに付、先般右様に鉄炮等携るものは勿論、長脇差を帯びまたは所参致し歩行候者共は召捕え、悪事の有無、無宿有宿の差別なく、死その外の重科を仰付致す旨の御触これ有る間、銘々支配領主地頭より触をなし、小前末々へ村役人共より精々申諭し、世話致し儀々は有べけれど、右体厳科を仰せ出すも、百姓風俗の悪(あしき)ものの風俗に移らさる様にとの御仁恵に付、有難き仕合に存じ、良民の害に相成るものは捨置せず、村役人共小前一同申合せ、搦押(からめおさ)え、その支配領主地頭又は御取締出役村先へ差出し、聊(いささか)の心得違い不身持のもの共へは厚く理解諭し申し、本心に立帰り家業精出し致候様、専々心掛け丹精致し、もし其上にも止をえず不身持の者は、是又廻村先に密に訴出し、此上悪いもの共徘徊致さば、村々役人共制方不行届きの間は、其品々取寄急取はからい申すべし、
  1. 一、村の内悪もの徘徊致し、又は商売のものを差置けば、村役人は勿論小前末の者五人組前書相弁せざる故に付、農暇又は休日再々村役人共読み聞せしめ急度相守る様に致すべし、
  2. 一、在々(ざいざい)にて歌舞伎、手踊、操(あやつり)芝居、相撲その外総て人寄間敷儀は、前々より御法度の所を近来猥に相成、所々にて芝居等相催す趣相聞き、これまで御仕置も仰付向も有なれども相止まず、芝居催等も右催するものは勿論、道具貸遣すものまで厳敷(きびしく)糺しの差(ママ)留申べし、
  3. 一、近来小前末々のもの心得違いにも農事を怠り商(あきない)を専らに致し、田畑作余り高持百姓難儀に及ぶ由、農家にて商売致すは、自然其所奢(おごり)に長ずる基、宜からざることに付、新規に商ひ相始るは勿論、追々相止まる様心掛けべし、
  4. 一、前々より御公儀の仰出候御法度の趣いよいよ以堅相守り申すべく候事、
  5. 一、宿町村の内、悪ものに店貸又は宿致候ものこれあるにつき、その所は勿論、近ずきにまで良民風俗悪敷くなり悪事に移り候間、右体の者並に無商売の者は決て村々へ差置申さず、常々村役人に心附、万一に隠し置き候はば、密々御廻村先へ御訴え申上候か、又は組合村方に搦押へ差出し、諸雑用の儀は悪者差置候当人五分、組合三分、残二分は其村高割、当人困窮者にて雑用できがたき節は、組合、親類より差出し、居村より差押へ差出し候節は番人足飯料、その組合村高割囚人差出入用は、店貸し又は宿致し候当人七分、組合三分、過怠無く差出し申すべき事、
  6. 一、婚礼の節は貧福の身元によらず一統一汁一菜の所、有合せの品を以て軽く酒肴差出し、着類は紗綾縮緬用いず、役人は妻子共に紬太織布木綿、百姓は布木綿ばかり着、櫛箸笄は銀鼈甲(べつこう)を用いず、親類組合向三軒両隣りより大勢打寄は益なし、無益の入用相掛け大酒等のこと前々の御触相守申す可く候事。

(以下略)


(『千葉市誌』六一五ページより引用)


 この教諭の内容にも見られるが、佐倉藩は藩の権力をもって充分な治安の維持をはかることが不可能になって、幕末には、民間人の中から五郷取締を選び領内を五つに区分し、治安保持の責任並びに民間訴訟のことに当たらせている。
 千葉町における五郷取締並びに名主は次の人々であった。
 千葉町(五郷取締)          久右衛門、八郎左衛門
 千葉寺村寒川村兼帯(五郷取締)          与惣兵衛
 宮崎村(五郷取締)                伝右衛門
 今井村泉水村(組頭)               文右衛門
 辺田村(五郷取締)                大蔵
 登戸村(五郷取締)                金兵衛
 黒砂村(五郷取締)                久左衛門
 矢作村(五郷取締)                孫次郎
 原村(五郷取締)                 喜惣治
 御朱印地来迎寺その他の門前名主          文八
 妙見寺門前名主                  清六
 大日寺門前名主                  源六
 また「教諭」によって布告されたことは、相当きびしく守らされたようであることを示す事例に、次のような実例がある。
 
  千葉町大日寺門前百姓歎願状
  恐れながら書付を以て歎願たてまつり候、

一、当三月千葉町に於て寄せ相撲これあり候節、私方醤油稼ぎ召仕いのもの共何れも似寄候揃ひ体の衣裳着用いたし罷在候処、仰を蒙り処、御調中私へ御預け仰せ付けられ恐れ入りたてまつり候、一体揃ひの衣類取扱候儀は縞柄宜敷趣(よろしきおもむき)にて、追々買調相仕立候に付、似寄の縞柄揃ひ同様に相見仕り候段、此上請調たてまつり候とも申し上ぐべき様御座なく恐れ入り奉り候に付、格別の御勘弁を以て御下付下し置かれ候様偏(ひとえ)に願い上げたてまつり候、勿論右衣類儀は私方にて染直し仕り、他方へ売り払い候様仕(つかまつり)、向後右体の儀は仕らせ間敷候に付き、幾重にも御憐愍(れんびん)を以て、右願の通り御聞済下しおかれ候はば、有難き仕合せに存じ奉り候、

以上


   嘉永五子四月
                  千葉町大日寺門前
                       百姓 仁兵衛
  右之通り願い上げ奉り候に付、格別の御勘弁を以て御聞済下し置かれ候はば一同有難き仕合せと存じ奉り候、
                  右門前  名主  七右衛門
  御取締御廻村
   宇佐見盤六 様

(『千葉市誌』六一八ページより引用)


 この内容は、大日寺門前の百姓仁兵衛の嘆願書で、その内容は、村相撲で、揃いの衣裳を作ったことが「倹約」のお触れが出されたなかで、これに違反した科(とが)で糾弾(きゅうだん)されたものであろう。それ故に、「揃いの衣裳を作ったのではなく、一人の作ったものに、皆がそれを真似た……。」と苦しい言い訳をしている。
 このような領民生活に、きびしい規制を加えながらも、佐倉藩の財政は、困窮する一方であった。幕末には、寒川の佐倉藩の米蔵は、空っぽの状態で、地方の債権者には苗字帯刀を許したり、士分に取り立てることで債権者を棒引きにしたりしたが、そんなことだけでは、とても危機を脱することはできず、徳政の令を出さなければならなかった。
  徳政御触之事

一、延享元年以来之金銀出入、奉行所を以て取上候義、同三寅(一七四六)年達せられ候以来既に五〇年余、追々金銀出入数多く成り候、人々相対之上借貸し候得ば、取上裁許にも及ばざる事に候間、是迄之分裁許を申し付けず、自今出訴方吟味之上取上、夫々に申しつけべく候、尤も売掛り諸職人作料手間賃に至迄同断の事、
  但し只今吟味迄取上裁許日限等申付置候分は、済方向後奉行所にて取扱致間敷、
  金銀借貸之儀は年長き義にても、相対に実意を以応対候へば、容易に出訴裁許請候にも不反事に候処、済方も貸方も不実意より、多くは猥りに出訴に及び風俗よろしからず、此度裁許之通り相改候ても、只今まで之借金弁済いたすべく抔心得候者尤不埓之次第にて、又は慾心を以て全く利徳に而已に抱く不埓成出訴之類は吟味之上、夫々に急度申し付くべく候事、

一、以来済方申付候分、申渡之金高不足致し毎度違わず候は、糺の上急度沙汰に及ぶべく候、


   寛政九巳(一七九七)九月一二日
 右者嘉多村役所にて仰せ渡され候間、御達申上げ候、      以上
                        月行事

(『千葉市誌』六二一ページより引用)


 このように、幕政の後半期には、佐倉藩の藩政の経済事情は、大きく変調をきたしている。これは、単に佐倉藩のみの事情ではないことは、明白であり、むしろ佐倉藩は、後期に名君といわれる藩主(堀田正睦)が出ていたため、領民に対して苛歛誅求がなかった。それでも、すでに右の史料に見られるように、寛政九年(一七九七)の時点で徳政を行わなければならなかった。
 幕末の慶応二年(一八六六)、明治維新も眼前に近づいたころ、千葉町で強訴未遂事件がおこっている。原因は、米の高値のためである。しかし佐倉藩がこのような社会情勢を、藩政上放置していたわけではない。
  慶応元(一八六五)年
 慶応元丑閏五月、米穀追々引上り相場之儀左に(『千葉市誌』名主日記による)
 一、寒川御蔵米     両に付    二斗
 一、町米        両に付    二斗一升
 一、糯米        両に付    二斗七升
 一、小麦        両に付    二斗五升
 一、白米   百文に付        二合八勺
 一、糯白米  百文に付        三合二勺
 一、大豆        両に付    三斗一升
 一、金時        両に付    三斗九升
 一、旧麦        両に付    三斗五升
 佐倉藩では、右の史料に示されているように、寒川の蔵米を、領民に売出した。藩では備荒用として、米の貯蔵をはかり、加曽利に御倉がおかれていたといわれている。これが、かつての天明・天保の飢饉に役立ったことが記録されているが、その後、農民が囲米を拠出することを嫌ったので、倉が空(から)になるという事態もしばしばおこっている。
 次に佐倉藩が囲米増加の目的で発した廻状をみてみよう。
 
 去る寅年地震、当年出水の国もこれ有り候えども、諸国一体作方当年よろしき趣ニ相聞え候ニ付、天保之度増囲穀全く備え致さざる向は勿論、不作等にて銘々用途に遣(つかい)払候分も少なからず残に付、年限にかかわらず、なるべくだけ繰り合わせ詰め戻し、此の節柄油断無く江戸、在と共に囲穀相増候様心掛け、領内郷中の貯穀等、相増し候様致さるべく候、増囲穀全く備え致し居り候面々は猶又、当節柄別段精々いたし候分は、其段早々相届けらるべく候、
 右之通り  公儀より仰せ出され候間、村中並びに寺社門前迄残らざる様ふれ知らせべく候、御廻状早々順達留り村より役所え相返すべく候、以上、
  安政二(一八五五)年九月三日                  小柴新一郎

(『千葉市誌』六二四ページより引用)


 これをみると、幕末の混乱期に、佐倉藩が米の囲い米を増やす努力をしている実態がくみとれよう。