東金街道

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 慶長年間に、徳川家康によってつくられた東金街道は、房総地方の道路整備の一つとして、特色のあるものである。御成街道ともよばれるこの街道は、船橋から上総の東金までの新道である。現在でも、船橋から千葉市中田町辺までを、地図上でほとんど一直線にたどることができる。
 この道路は家康が、東金へ鷹狩りにくるというので佐倉城主が、慶長十九年(一六一四)に、地元村々に対して、村高に応じて道路の間数を決め、工事にあたらせたもので、千葉市域内で、この工事を担当した村名と、距離は四―一五表のとおりである。
4―15表 東金街道割当間数,慶長19年(千葉市域の町村のみ)
村名工事間数村名工事間数
馬加村12町辺田村12町
武石村  4町加曽利村20町
横戸村  40間長峯村  1町(橋)
検見川村  1町10間下田村,谷当村11町
長沼村  3町半大草村,坂月村  5町
稲毛村  2町20間高根村15町
小中台村  7町田戸田村,旦谷村
天戸村  20間(田)大井戸村  10間
宮野木村  30間(田)川井村  30間
薗生村  25間(田)高田村  40間
犢橋村  3町30間泉村  1町20間
作草部村  60間野呂村20町50間
宇那谷村  40間中野村14町
野田村  1町大和田村  3町40間
貝塚村10町
原村,高品村  9町

(『慶長19年 従舟橋東金新道作帳』から作成)


 家康は、慶長十九年一月七日に江戸を出発して鷹狩りを東金近辺で行っており、この道路工事は、その後になされたものであろう。
 家康は鷹狩りを好み、武蔵・下総・上総と各地で鷹狩りを行ったが、その宿泊施設として、御殿を建設した。東金街道にも、船橋御殿、御茶屋御殿(千葉市御殿町)、東金御殿の三カ所を建設した。お茶屋御殿とは通称で他の御殿名が地名をつけて呼ばれており、正式には他の呼名があったのかもしれない。
 通称お茶屋御殿跡は、現在畑になっているが、周囲を深さ二間の堀で囲み、入口もカギ状の土塁を配置するなど防備を備えた屋敷があったことがわかる。
 家康時代に御殿、御茶屋の建設は各地にみられ、二一を数えるが、大体元祿期を境にその機能を停止したという。参勤交代制の確立・交通路の整備に伴ない、御殿に代わって、本陣が将軍家、諸大名の宿泊場所になってゆくのである(『蕨市の歴史』巻二 七~一九ページ)。
 東金地方への将軍の鷹狩りは、家康が二回(慶長一九・元和三)、秀忠は八回(元和三・元和五・元和六・元和七・元和九、寛永二・寛永四・寛永七)、家光は一回を数えることができ、寛永期までは、よく利用されていた。東金御殿は、寛文十一年(一六七一)四月に取り払いになっており多分このお茶屋御殿もこのころ廃止になったものと考えられる。

お茶屋御殿跡(千葉市御殿町)


4―6図 お茶屋御殿跡平面図

 この鷹狩りについては、家康時代には、江戸近辺の情勢を探ることも目的だったといわれている。関東に入国して間もない徳川氏にとって、大阪方との戦いもあり、現地の情勢把握、特に土豪層の掌握を心がけた面もあったといえよう。
 この東金街道の建設も、単に鷹狩りのためというのではなく、九十九里地方を経済的に結ぶ意図もあったといわれる(『船橋市史』一一四ページ)。