こうした陸上交通だけでなく、海上交通の点でも、千葉は内湾交通の拠点としての地位が高まった。
特に物資の輸送に際しては、船の方が多量の物資を運搬できるため、房総地方の年貢米を、江戸へ送る積出港として利用されるに至ったのである。
元祿十三年(一六五〇)四月に、幕府は、江戸近国から江戸へ運ぶ城米・蔵米の津出港、ならびに河岸からの江戸への距離と、廻米運賃を定めて公示した。
千葉市に関係のある湊・浦には、
検見川湊(八里・百石に付一石の運賃)
曽我野浦(十里・百石に付一石一斗)
登戸浦(十里・百石に付一石一斗)
の三カ所があげられている(『徳川禁令考』)。
『佐倉風土記』に、「船路は二道あり。一は登戸・佐倉を離れること南三〇里、寒川とならび連ねて海畔にあり。比より海に浮かぶ、西南五〇里、武江(江戸)に達す。最もはやしとなす。」とあり、佐倉藩にとっても、寒川は重要な海上運輸の基点となった。のちに御蔵を建て、江戸廻米をここから行ったのである。
海上輸送で運ばれる物資は、米ばかりではなかった。薪炭類・醤油・酒などの醸造品・漁獲物・農産物など多種多様であり、また江戸からも衣類日用品などが運ばれてきた。