江戸時代の千葉町の海上交通の基点としては、まず寒川浦があげられる。前述した元祿十三年の湊・浦一覧には、寒川浦はでておらず、これは、元祿期にまだ寒川が、湊としての重要な役割を果たしていなかったものと思われる。近くの登戸浦がでているところをみると、中世以来近世初期まではむしろ登戸が中心であったのかもしれない。
寒川村は幕末において五三一石余の村高で、戸数は延享三年(一七四六)には、三三七戸、一、七七三人を数え、なかなかのにぎわいをみせていた。佐倉藩では、ここを江戸への津出港として重視し、ここに藩の御蔵をつくり、年貢米をここに収納した。特に文政四年(一八二一)の藩政改革以後、領内の各村は、その年貢米を、佐倉藩の椎木蔵か千葉の寒川蔵のどちらかに納めることになった。そして文政四年には寒川蔵へ五、一六六俵の米が納められている。寒川から江戸の蔵前の倉庫までの運送は、寒川の船間屋が引きうけた。安政二年には、寒川から、九千八百石位の米が、江戸へ廻米されている。延享三年『寒川村指出帳』によれば、
但堅五十七間
蔵屋敷一ケ所 横三十五間
御蔵 五棟
内一棟潰蔵
とあり、延享年間には、四棟の蔵があった。
「寒川の御蔵から、米、大豆を江戸へ積み出す時、当村(寒川村)が蔵元であるので、百姓船で積送っている。船賃は、米百俵につき、二俵ずつ前々からもらっている」とある。ここにある百姓船とは、五大力船のことであり、延享三年に寒川村では四〇艘もあった。この五大力船は、百俵積船、九〇俵積船とあるのをみると、一隻でもかなり輸送力があったわけである。
五大力船は、おもに江戸湾を中心として利用された船で、薪炭・米穀など日常物資の輸送に使われた。海上から河川に入り、ある程度遡航できる構造になっていた。また大きさは百石積級の小型から、三百石積級の大型まであった(『交通史』四三六~四三七ページ)。
寒川村について、『下総国旧事考』では、「戸凡(およそ)五百、二総の諸物、江府(江戸)に転輸する馬頭(港)なり船儈(せんかい)(船商人)、漁戸多し。」とあるように、下総、上総からの諸荷物が集まり、江戸へ運送する拠点となっていたのである。