2 その他の湊・浦

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 さきにみたように、元祿年間の津出湊・浦として、検見川湊・登戸浦・曽我野浦の三カ所があげられている。安房と上総の内湾側の村々では、近くの浦々が、廻米、あるいは日用物資の取り扱い湊として利用されていたが、上総東部の村々では、おもに登戸浦、曽我野浦、浜野浦、村田浦などが利用されていた。
 四―一六表によって、わかるように、大多喜など東上総の南端に近いところでは、上総路を通ると村田浦が最も近いし、一方成東町・蓮沼村など山武郡北部の村々では、登戸浦から津出しをした。その中間に位置する村々が曽我野浦、浜野浦を利用した。例えば東金町の場合は、曽我野浦へ出している。
4―16表 千葉周辺年貢米津出浦
村名津出浦年代
薗生村(千葉市)検見川村寛政5年
蓮沼村登戸村享保6年
成東町元祿14年
東金町蘇我町宝暦10年
関村(白子町)享和2年
作田村(九十九里町)浜野村元祿11年
佐貫村(睦沢村)宝暦3年
大多喜町村田浦元祿15年

(『千葉県議会史』上巻.p52所収)


 登戸浦の場合、宝暦十二年(一七六二)の記録では「船高四十九艘、内二十九艘有、二十艘潰」とあるから、当時の船数は二九艘であった。この船は、米七五俵積のものから、三〇俵積、あるいは押送船と大小さまざまであるが、「江戸上下御用向荷物、ならびに御家中様方御荷物、壱駄に付、船賃四十八文づつくだされ候」とあり、日常物資を含んで取り扱っていた様子がわかる。
 天保七年に、山辺郡不動堂村の百姓嘉助が、〆粕四〇俵を、下総の曽我野浦川岸荷宿へ送ったところ、途中で濡荷になったために、そのまま近所へ売ったとして訴えられた記録や、また同人は、魚油八本と、〆粕一四俵を山武郡細屋敷村より、今井村河岸荷宿へ送っている。この場合取り扱い量は少ないが、浦々にある荷宿の仲買商人は、各地からこうしたかたちで荷を集めて、江戸問屋へ送りこんだのである。
 幕末に曽我野村名主、久助は、五大力船を一般所有して、〆粕、干鰯(ほしか)、雑穀運送に従事しているが、こうした仲買商人的存在の一人であった。
 『下総国旧事考』には、
 登戸村、戸凡そ一百、船儈多し。
 蘇我野、浜野、ともに房総往還たり、戸各二百。旗亭多く船儈あり。
とあり、いずれの浦々でも、海上運輸を中心にした商人がおり、特に蘇我野、浜野では、安房、上総方面への街道にあたるため、料理店、宿屋など、旅人を目当てにした商売で繁昌した様子がうかがえる。