佐倉藩領

87 ~ 88 / 492ページ
 江戸時代の千葉町は、佐倉藩領として支配されているが、いつごろから佐倉藩領にくみこまれたのか、史料的には、はっきりしない。佐倉藩といっても、天正十八年(一五九〇)に、家康が関東を支配してから、幕末の堀田家に至るまで、一四家を数えることができる。元祿年間の史料によれば、千葉町周辺部を含めて、戸田能登守支配とあり、貞享三年(一六八六)から、元祿十四年(一七〇一)まで、佐倉藩主であった戸田氏のときは、佐倉藩領であった。
 延享三年(一七四六)に、出羽山形城主の堀田正亮が、下総一〇万石として移されたが、その時以来千葉郡三一カ村は、一万五百石余で、佐倉藩城付領として、幕末までその支配下にあった(木村・杉本編『譜代藩政の展開と明治維新』三〇~三一ページ)。
 千葉町、寒川村、千葉寺村、登戸村、黒砂村等は、佐倉藩領に属していた。なお千葉町には、一部寺領地があった。妙見寺領(二百石)、来迎寺領(五〇石)、大日寺領(一〇石)であり、妙見寺領で二〇戸、他は一〇戸~一五戸位の戸数である。
 房総地方は、大藩がなく、旗本領・天領・小藩領で、しかも支配が錯綜している点が特色である。そして各藩の中心地は、大体内陸部におかれていた。
 これについて栗原東洋氏は、「家康による関東支配、なかでも房総半島支配の中で特徴的なことは、東京湾岸の臨海部から、諸藩の支配勢力を排除し、他の地方にみられるような臨海都市の形成を阻止したことである」と指摘している(『印旛沼開発史』第一部上巻二九九ページ)。