史料が不じゅうぶんではっきりしないが、四―一七表のような数字が現在知られている。ただし安政二年の戸数と、六年の戸数があまりにも隔っている。『佐倉市史』によると、同年の寒川四七〇戸、登戸一五〇戸、黒砂二〇戸とあり、この六百戸は、必ずしも千葉町周辺を含んだ数ともいえない。
明治六年の戸数七六〇戸も、寒川村・登戸村・黒砂村を含んでいないようなので、安政二年からの増加戸数一六〇戸はうなずけるが、安政六年三四八戸から、明治六年の七六〇戸に、増加戸数四一二戸は少し多すぎるようにも思える。千葉町の範囲のとり方に違いがあるのか、その点をもう少し究明する必要がある。
年 | 戸数 | 人口 |
嘉永5(1852) | 367(1) | |
安政2(1855) | 600(2) | |
安政6(1859) | 348(3) | 1686 |
明治6(1874) | 760(4) | 3950 |
出典(1)『千葉市誌』p247 (2)『佐倉市史』巻1.p389 (3)『千葉市誌』p248-249 (4)『千葉市誌』p284.