天保二年(一六八二)には、千葉町には、田地五八町五反歩余、畑地二八町六反歩が、農地面積であった(『千葉市誌』二四五ページ)。
明治九年の調査によると、地番一~三一七四番までで、田地一一四町二反歩・畑地一九四町八反歩となっている。
嘉永五年(一八五二)の各町の持高をみると四―二一表のとおりである。
町名 | 高持百姓 | 無高百姓 | 合計 | 最高高持 |
戸 | 戸 | 戸 | 石斗升合 | |
市場町 | 28 | 32 | 60 | 10.8.4.6 文蔵 |
本下町 | 30 | 11 | 41 | 34.2.6.1 八郎左衛門 |
本中町 | 22 | 19 | 41 | 10.5.2.3 源左衛門 |
本上町 | 19 | 8 | 27 | 16.2.4.4 儀惣治 |
横町 | 7 | 7 | 14 | |
道場町 | 8 | 18 | 26 | |
唐上町 | 10 | 4 | 14 | 11.4.8.2 六郎兵衛 |
唐中町 | 17 | 3 | 20 | 62.8.8.1 忠蔵 |
唐下町 | 24 | 11 | 35 | 12.5.9.7 庄之助 |
千葉新田 | 18 | 25 | 43 | |
計 | 183 | 138 | 321 |
(『千葉市誌』p247所収)
一応高持の百姓は全体の五七パーセントに当る一八三戸であり、無高は四三パーセントの一三八戸であった。しかし、高持百姓も、もう少し詳しく内容をみると、零細農が圧倒的に多かった。
四―二二表は、安政六年(一八五九)の統計であり、四―二一表と時期的に殆んど同じと考えてよい。高持ちでも一石以下が六四戸を占め、五石以下は一四八戸で無高を合わせると全体の九三パーセントを占める。千葉町の場合も、少数の地主と、多数の無高・零細農という現象がみられ、千葉町が江戸との交通の拠点でもあり、商品経済の進展の中で、土地を喪失する農民も多かったと思われる。裏中町の忠蔵は、六二石の持高をもつ最大の地主であるが、酒造営業を営んでいたから、商業経営の中で、地主的成長をみせたものと思われる。
持高 | 戸数 | 比率 |
1斗以下 | 15 | 18.4 |
1斗~5斗 | 32 | |
1~2石 | 34 | 27 |
2~3石 | 26 | |
3~4石 | 24 | |
5~10石 | 11 | 6.6 |
10~20石 | 10 | |
28石 | 1 | |
63石 | 1 | |
合計 | 348戸 | 100 |
(『千葉市誌』p249所収)