農村としての千葉町

90 / 492ページ
 千葉町も本来は農村としての基盤の上にありそこに住む人々も、土地を所有する百姓たちである。
 天保二年(一六八二)には、千葉町には、田地五八町五反歩余、畑地二八町六反歩が、農地面積であった(『千葉市誌』二四五ページ)。
 明治九年の調査によると、地番一~三一七四番までで、田地一一四町二反歩・畑地一九四町八反歩となっている。
 嘉永五年(一八五二)の各町の持高をみると四―二一表のとおりである。
4―21表 嘉永5年(1852)千葉町,町別石高表
町名高持百姓無高百姓合計最高高持
 石斗升合
市場町28326010.8.4.6 文蔵
本下町30114134.2.6.1 八郎左衛門
本中町22194110.5.2.3 源左衛門
本上町1982716.2.4.4 儀惣治
横町7714
道場町81826
唐上町1041411.4.8.2 六郎兵衛
唐中町1732062.8.8.1 忠蔵
唐下町24113512.5.9.7 庄之助
千葉新田182543
183138321

(『千葉市誌』p247所収)


 一応高持の百姓は全体の五七パーセントに当る一八三戸であり、無高は四三パーセントの一三八戸であった。しかし、高持百姓も、もう少し詳しく内容をみると、零細農が圧倒的に多かった。
 四―二二表は、安政六年(一八五九)の統計であり、四―二一表と時期的に殆んど同じと考えてよい。高持ちでも一石以下が六四戸を占め、五石以下は一四八戸で無高を合わせると全体の九三パーセントを占める。千葉町の場合も、少数の地主と、多数の無高・零細農という現象がみられ、千葉町が江戸との交通の拠点でもあり、商品経済の進展の中で、土地を喪失する農民も多かったと思われる。裏中町の忠蔵は、六二石の持高をもつ最大の地主であるが、酒造営業を営んでいたから、商業経営の中で、地主的成長をみせたものと思われる。
4―22表 安政6年(1859)千葉町石高階層表
持高戸数比率
無高167戸48%
1斗以下 15 18.4
1斗~5斗32 
5斗~1石17 
 1~2石34 27 
 2~3石26 
 3~4石24 
 4~5石10 
 5~10石11 6.6
10~20石10 
  28石1 
  63石1 
合計348戸100

(『千葉市誌』p249所収)