1 澱粉製造

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 甘藷を原料としてつくる澱粉は、天保年間に、下野(群馬)の絹織物商である中里新兵衛から製法を教わり、作られはじめたという。
 千葉で澱粉製造を始めた人として、千葉寺町五田保の花沢紋十が、天保十年に教わり、自分でも製造を始めるとともに、隣人にも伝えたという。(『房総紀要』明治四十四年発行、『千葉郡誌』八三六ページ。「千葉市誌」三八七ページ)。
 また一説には、蘇我町の大塚十右衛門が製造を始めたともいう(『千葉県産業要覧』明治四十一年発行)。大塚十右衛門は、その後応用して白玉粉の製造を考案した。この段階では、機糊(はたのり)として使用されるにすぎなかったが、万延元年になり、絹篩(きぬふるい)を用いて製造に改良を加え、上晒粉(じょうさらしこ)を「葛(くず)」と名付けて売りだしたという。明治三年になると、陰乾法により精白で甘く、初めて食料品として利用できるものがつくられた。明治十年~十三年の内国博覧会に出品して賞をうけ、それ以後、急に需要が高まったといわれる。
 「千葉町五田保にて製造する所の葛粉、其量頗(すこぶ)る大也。毎年概ね甘藷七・八万俵を摺って葛粉七・八万貫を製す。」(『千葉繁昌記』明治二十四年)と述べられている情況は、明治中期のものであるが、幕末以来の発展の様子をうかがうことができる。
 このように澱粉製造についてみると蘇我町、千葉町が県下での首位を占めており、明治三十年の製造戸数は八〇戸であった(『千葉郡誌』二三一ページ)。
 原料も甘藷から、馬鈴薯・機具も手摺機から明治二十四年に磨砕器械が用いられて、大幅に製造量も増えていった。
 澱粉の用途は、さきにふれたように織物類、特に絹織物(羽二重など)の機糊として使われ、次第に菓子類、蒲鉾(かまぼこ)の原料など食料品の分野に利用されてゆくのである。
 江戸時代の澱粉用途は、このうち機糊に、おもに使用されていたので需要も限られていた段階であった。澱粉製造の本格的な展開は、明治期にあったといえよう。
 このように澱粉製造が急増した背景には、房総地方における甘藷栽培の増加ということが考えられる。澱粉の原料である甘藷が、容易に手に入るという条件があったためと思われる。