甘藷栽培の普及

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 甘藷が日本に伝来したのは、一七世紀末ころといわれ国内各地にひろまったのは享保期以降である。
 関東地方への普及は、青木昆陽によってなされた。彼は享保二十年(一七三五)『蕃薯考』を著わし甘藷の食物としての価値を論じて、江戸で試作を行った。その後種芋四千個を勤務の役人に分配して、僅かの期間に、関東地方でも栽培されるようになった(『日本歴史大辞典』甘藷の項)。
 そして、この試作地として、江戸の小石川薬園と共に、下総国馬加村(幕張)と、上総国豊海(山武郡九十九里町)でも植付けられ、馬加村では種薯一七個から、二石七斗三升の収穫を得て、天明の飢饉にも餓死者は出なかった(『千葉県文化財総覧』二八七ページ)
 村人は、のちに青木昆陽を讃えて、弘化三年(一八四六)に、幕張の秋葉神社境内に、昆陽神社を建立した。なお試作地跡には、記念碑がたてられ、現在県指定史跡になっている。

青木昆陽甘藷試作の碑(市内幕張町)

 房総地方への甘藷栽培は、次第に普及したが、海上郡では、一七八一年ころ、安房郡では、一七六四年ころにつくられ始めた(『千葉県甘しよ発展誌』一ページ)。
 村明細帳の記述をみても、葛飾郡関宿町桐ケ作では、宝暦七年(一七五七)に「畑作物の義は、粟・稗(ひえ)・芋第一に作来り申候」とあり比較的早い例である。長生郡白子町日当では、天明八年(一七八七)にみえる。犢橋村では、天保十四年(一八四三)に「畑作の義は、麦・小麦・菜種・または粟・稗・さつ摩芋作、江戸表へ積み出し売捌(うりさばき)申候」(『千葉県史料・下総国下』四ページ)と商品化されていた様子がみえる。同村では、明治二年の記録でも「産物薩摩芋・年々に凡金五百両余入」とあり、幕末以来重要な現金収入の一部をなしていたことがうかがえる。このような状況が、千葉周辺の農村の様子であったと思われる。
 こうした幕末における甘藷栽培の普及と、生産量の増大を背景に、澱粉製造が展開したのである。