江戸の人口増加と需要の増大により生産量は増大し、関西醤油との競争にも打ち勝ったのである。
安永九年(一七八〇)には仲間一八人、生産高九千石になった。
野田の場合も、天保三年(一八三二)に仲間一八人で二万三千石が、文久三年(一八六三)には仲間が一〇人と減少しているのに、生産高は四万四千石と倍増している。
特に野田の場合は、江戸に近いので江戸問屋との取り引き面で有利であった(荒居英次『銚子・野田の醤油醸造』日本産業体系、関東篇)。
こうした銚子・野田にみられる醤油製造の発達は、関東各地にこうした気運をもりあげ、各地に仲間が結成された。
文政七年(一八二四)には、江戸問屋に対抗するため、関東八組の醤油仲間が結成された。
関東八組には銚子組、野田組も入っており、総計一〇九名であったが、千葉組一二名も加わっている(四―二三表(イ)参照)。
野田組 | 19名 |
銚子組 | 20 |
成田組 | 7 |
千葉組 | 12 |
川越組 | 15 |
江戸崎組 | 4 |
水海道組 | 7 |
玉造組 | 25 |
(『野田醤油株式会社20年史』p25より)
千葉組一二名の氏名は、四―二三表(ロ)のとおりである。このうち、近江屋仁兵衛は千葉町横町に店をもった柴田仁兵衛であり、天保・嘉永・明治初年のそれぞれの「関東醤油製造番付」表の中で、前頭一二枚目程に位置づけられており、かなり大きな経営であったことがわかる。また大木藤右衛門も、天保の番付表に「登戸」として出ているが、それ以外の番付表には見当たらない。千葉町周辺の場合、これ以外の醤油醸造は、全体的に小規模であり、地売りが中心であったようである。
近江屋仁兵衛 | 吉田四平 |
大木藤右衛門 | 吉田佐太郎 |
篠崎三右衛門 | 木内治左衛門 |
東金茂左衛門 | 平野屋平蔵 |
立田吉右衛門 | 小河屋七郎兵衛 |
近江屋繁太郎 | 小菅七郎兵衛 |
(『野田醤油株式会社20年史』p25より)
明治末期の記録では、千葉郡で約六千石余の生産があり、そのうち千葉町で千七百石余の生産があった。「主産地は検見川村・生実・浜野村幕張町及犢橋村等なり」(明治四十四年発行『千葉市誌』二二ページ、『千葉郡誌』二三二ページ)とみえるように、幕末から明治にかけて、一定の発展はみられるのである。