初期の内湾漁業

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 近世初期の東京湾での漁業については、史料的にはっきりしない。一部に漁村集落が形成されていたが、全体的に漁業の開発は、関西地方にくらべて遅れていた。戦国時代、のち北条氏の支配下で、横須賀周辺で葛網漁業が行われていたが、内湾漁業の本格的展開は、家康の江戸幕府開設後に、関西、特に摂津、紀州漁民の進出により、漁業開発が進んだのである。
 関西漁民の移住の例としては、佃島に移住した森孫右衛門が有名である。摂津国西成郡佃村・大和田村から孫右衛門ら三三人の漁師が、幕府開設の際に呼びよせられ、漁業の特権を与えられた代わりに、鮮魚類を献上したといわれる。
 房総方面でも、紀州からの出稼漁が多く行われ、海岸に納屋をつくり中には、出稼ぎ先に定着するかたちで漁業を行った例は、安房・東上総・九十九里・銚子方面には多いのである。
 慶長十九年(一六一四)に、三浦浄心によって書かれた『慶長見聞集』に
 今相模・安房・上総・下総・武蔵の五カ国の中に大きな入り海がある。諸国の海を廻る大魚共は、この入り海をよいすみかと知って集まるが、関東の漁師は取ることも知らないで磯辺の魚を小網や釣でとるのみである。ところが、今武州の江戸繁昌のため、西国の漁師が多く関東に来てこの魚をみて、幸いかなと、地獄網という大網で漁をしている。早船一艘に一五~一六人ずつ七艘に乗って網をかけると、この網の中に入った大魚・小魚ども、一つも外へ逃れることができず、海底のくずまでも引き上げることになる。

 このように関東と関西の漁業技術の違いを述べている。
 関東の漁民は、関西漁民の進出の中で、先進的漁業技術を学び、本格的に漁業に乗り出すのである。こうした段階にあって、初期の沿岸村落にとっては、肥料源として、海産物の利用が大きな意味をもっていたと思われる。