巻き貝の一種である「きさご」(細螺)は、房総内湾の村落で肥料として用いられており、その採集をめぐる争論もしばしば起っている。
元祿七年(一六九四)に、曽我野村と北生実村の間に浦境論が起こったが、これもきさご採集をめぐってであった。曽我野村側が、きさごを取る場所は境界が決まっていると主張したのに対して、北生実村側は、入会できさごをとっていると主張した。結局裁決の結果は、南生実村は浦付き村ではないが、北生実村同様であるとし、両村の曽我野村への入会いによるきさご採集が認められた。
また文政六年(一八二三)四月には北生実村、村田村、浜野村と、市原郡八幡村との間に、きさごをめぐる争論があった。
訴状によると、八幡村の者が、それまでの慣例を破って、明日きさごを取りにゆくと申し入れて、村田村、浜野浦をこえて、北生実村浦までやってきて、きさごを取ったということにあった。北生実村側では、田肥に差し支えるので、前のように村田川中央を境にして、八幡村はそれを越えては困るという主張であった。
これに対して八幡村では、きさごを取るときは、村田・浜野両村に廻状を出して、三カ村の承知の上でとっていた。北生実村の者が大勢で押しかけてきて、当村の船と、すでに掻きとったきさごを奪わんとしたものであると反論した。この争論は、文政七年十二月まで、一年半以上もかかり、村田村と八幡村の境杭についてのもつれから、村田村名主庄八が、八幡村村人になぐられ、気絶するという事件に発展した。
この争論については、村田川に浦境をつくり、それ以後は、境を越えて入会をしないということで解決している(『千葉県史料』下総国下第六号史料)。
こうした村と村の争論だけでなく個人で他村の貝類をとった場合、みつかると詫状を書かされた。
安政四年(一八五七)に、寒川村の村役人が、今井・泉水村宛に出した詫状一札には、
「海岸の村々は、貝類をもって田の肥料にし、又農間渡世の稼ぎをしており、他村の者が勝手に貝類をとってはならないきまりになっている。ところが当村の者が船で乗り込み、貝類をとっていたところを取りおさえられ」
とし、今後は絶対にそのようなことはないと誓っている。
以上みてきたように、きさご類を肥料に利用することは、江戸時代を通じて行われ、沿岸村々にとって大切な肥料源であった。