漁業境界

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 漁業技術の発達に伴なって、沿岸各村では、漁業区域の境界をはっきりさせることが必要であった。
 早い例では、寛文九年(一六六九)に、寒川村と千葉寺村との間に、海撈訴論が起こっている。この裁決の中で、
 取り調べたところ、寒河村は、漁撈の運上を、以前から地頭所に出しているので、遠国の者が漁をする場合には、寒河村の支配による。但し千葉寺村も海辺まで地続きであるから、自分たちが漁をする場合には、入会にする。

とある。
 どんな漁がなされていたかはわからないが、一七世紀中ごろに、すでに寒川村では、領主に運上を納めるだけの漁業が行われていたのである。沿岸村落では入会漁が行われていたが、他地域からの出漁に対しては沿岸村落の優先権があった。しかし、これは、寒川村が、領主に対して漁撈運上を納めていたことにより認められたものである。
 享保十三年(一七二八)に、馬加(幕張)村、検見川村、黒砂村、登戸村、寒川村、今井村、泉水村、千葉寺新田村、曽我野村、大弓新田、浜野村の一一カ村に対して、漁業区域の調査が行われ、浦々の様子を書いて出すよう命じている。
 この返答書の内容をみてみると、
 私共の浦々では、磯を離れて、嶋や、根という場所はない。干潟が五・六丁から二〇丁程もあり、それから二・三尋(ひろ)の水深の場所までは、その村々で支配して漁をしてきた。他村の漁は一切いれない。
 佃島の小網は、前々から将軍家へ肴を差し上げているため、どこへでも漁師が入ってきたが、運上を取ったことはない。その他の漁師は、一切入ってはならない。
 沖の深い所は入会で、他の村々の者が漁をしてもよい。

(『千葉県史料』下総下三号史料)


 これをみると、沿岸部は、地先村落の専用漁場で、沖合いが入会漁場であったことがわかる。
 ここにでてくる佃島の小網とは、前にみたように、佃島漁民に幕府が、江戸近辺での漁撈に対して特権を与えたものであった。
 慶長十八年(一六一三)に、「この網引きは、江戸近辺の海や川で、網を仕かけることを許可する」という特権であった(『東京内湾漁業史』一〇八ページ)。これによっても佃島の漁民が、千葉近辺にまで来て漁をしていたことがわかる。