『佐倉風土記』にも、「海魚、寒川より出づ、蛤蜊の属、寒川を佳と為す。」とあり、魚類、貝類がおもに寒川でとれるとしている。また一八世紀初期の記録にも「三月より九月中ごろ迄は、相州鎌倉より毎年りうし(漁師)寒川へ来りて、魚を取る。江戸へをしおくり(押送)にて出す。佐倉へも馬かけにてくる、いつにても殊外あたらしく風味格別の上魚なり。」「高値なり。朝か昼か夕かの内、両所より魚来ると、魚市立つなり……。入用なれば寒川へ申遣はば、かつほ、たこは来る。すぐれてかうじき(高値)なり。」「二月末より三月中、毎朝寒川より蛤、大小沢山来。つめた、あかにし・あさり・さるぼうのむきみ沢山にある。」(『佐倉市史』巻二、二一〇~二一三ページ)とある。
この文章は、佐倉藩主稲葉氏の家臣渡辺善右衛門が、佐倉在住時代の見聞を書きとめたものであるが、佐倉城下では、専ら寒川でとれた魚類が主であった様子がわかる。
寒川浦では、寛文年間に、浦運上を出していたことは、さきにみたが、延享三年(一七四五)には、浦運上金四五両で、源兵衛が請負っている。この時の運上金は、網に対してかけられたようである。
「松平左近将監様の時に、猟がなかったので、お願い申し上げ、網二丈にて、御運上金一六両で請負った。」とあり、こうした請負方法は、享保年間にできたことがわかる。この金額からすると、寒川浦で当時かなりの漁獲があったことと思われる。
登戸村では、宝暦十二年(一七六二)に、「小猟船五艘」とあり、この段階ではたいした漁業的発展があったとは思われない。曽我野村では天保十三年(一八四三)に、永二貫五百文の運上金を納めている。
天保末期にかかれた『房総三州漫録』に、かなり寒川周辺の漁業についての記録がみられる。貝類については、
アカガイ・検見川の下深さ十二・三尋の所にてとれる。オホノ・泉水・曽我野の下に多し。寒川の沖・浅蜊(あさり)よろし。
また漁類で寒川周辺でとれるものとしては、鯒(こち)・鰈(かれい)・黒鯛・いか・鰯・鰶(このしろ)・ぎんだぎら・鱚(きす)・ひたりくち(鮃(ひらめ)類)・はぜ類・ぎんぽ・鮹(たこ)類・烏賊(いか)・鰡(いな)・いなだ・たなご・ごんそう・かます・げんぱち・鰺(あじ)・ぼら・かに類・えび類等かなり多種の魚をあげており、特に鯒と鰈については、「江戸前に優るとぞ」と述べている(『改訂房総叢書』七巻、四八九ページ)。
漁法としては、六人網・小地曳網・手繰網・小網・烏賊網・鯒網などがおもなものであり、六人網は、鰯漁が中心であった。
鰯漁については、九十九里地方で行われた大地曳網が、たいへん有名であるが、内湾各地の漁村でも鰯漁は行っており各地で干鰯・〆粕・魚油の製造を行っていた。
漁業が最も盛んであった寒川村を中心にみてきたが、貝類と小漁職による漁業形態が、江戸時代後半の千葉市沿岸の漁業であったといえよう。
明治十三年九月の調査によると、千葉郡の沿海漁村の魚具・漁船数は四―二四表のとおりである。この千葉郡は、大体現在の千葉市域内にあり、幕末の状況も大体これから類推することができると思われる。
地曳網 | 八手網 | 雑網 | |
網数 | 24 | 2 | 2,663 |
漁船数 | 8 | 0 | 433 |
(『農商雑報』第2号より)
網の種類で特に雑網の数が多いが、これはおもに手繰網をさしていると思われる。
明治末期の寒川漁業組合(寒川・登戸・黒砂・千葉寺)の統計でも、漁網では、小形地曳網三・手繰網一二五・六人網八・雑二五と圧倒的に手繰網の数が多かった。網数全体の八割近くを占めている。
漁船では、三間未満が二八九隻、五間未満五九隻と、それもまた三間未満の小漁船が八割余を占めていた。
手繰網というのは、内湾漁業三十八職の一つにあり、繩船漁、小網・藻流網などとともに、内湾各地でよく行われた漁の一つである。「三十八職」によると、「この漁は季節なく漁夫二人、三人がのり、網幅六間、丈八尺を用ひ、網三十尋より四十尋に及ぶ」漁であり、二、三人で行う小漁であった。
こうした明治期の漁業形態は、大体千葉沿岸の江戸期の漁業とかわらなかったと思われる。漁獲物は、地売りや佐倉に送られたが、押送船を用いて、江戸魚問屋にも送られた。延享三年に、寒川村では、この押送船が二〇艘あった。