さてこの中で、炭は江戸時代には「佐倉炭」の名で呼ばれており、「千葉、埴生両郡の際に出づ、其の鋸断の者、茶炉の用に堪ゆ、殆んど、摂津池田の産に似たり、但し香気を欠くのみ」(『佐倉風土記』)とあり、江戸においても、炭の質が高く評価されていたようである。
佐倉炭が江戸に出回ったのは、享保ころからといわれている。佐倉藩でもこの炭を、藩の重要な商品として重視していた。
藩では、この炭を藩営買上所で独占的に買い上げ、専売品として扱い、領内の木炭生産者の直接販売を禁止した。これらの仕事は、郡方奉行の支配下で行われ、藩営買上所は都川河畔に、炭の貯蔵倉庫は、泉水村にあった。この泉水村の炭会所がつくられたのは、文政十年(一八二七)とあるから、佐倉藩で積極的に佐倉炭を取り扱おうとしたのは、このころのことであろう。そして同年に、千葉町の利兵衛が、炭会所附御用達を命じられ、二人扶持を与えられている。ちょうど佐倉藩では、文政四年に財政改革が行われており、佐倉炭を専売品として扱おうとしたのも、この財政改革と関連していたと考えられる。
藩で買い上げた炭は、千葉町木炭商が請け負って、江戸の薪炭問屋との取引きに当たった。しかし千葉町木炭商は、彼らの利益がおさえられているために、江戸問屋に送らず、江戸への直接販売をして訴訟になったこともある。文政十二年(一八二九)十月には、千葉町名主、組頭の三名が、小売りを行ったとして、炭問屋役をはずされ、名主役、組頭を免じられている。登戸、寒川からの輸送も、藩の買い上げでない分は厳しく制限されていた。
こうした中で、佐倉藩は、弘化三年(一八四六)に、御用達の制を廃止し、利兵衛の御用達の任を解いている(『佐倉市史』第二巻、二六〇~二六五ページ)。
そして、佐倉炭の営業権を、四百両で、千葉町木炭商一五人に譲り、年に一両の課税をすることになった。冥加金上納に功労のあった和田円治は、炭仲間取締役に任命され、炭槙問屋株仲間議定書がつくられている(千葉市誌』四二五~四二七ページ)。
以上のような経過をみると、佐倉藩による佐倉炭の専売制は、充分に効果をあげることなく、終わってしまったといえよう。