2 甘藷生産

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 甘藷については、澱粉製造との関連で、房総、あるいは千葉周辺での栽培の普及状況についてふれたが(第八節・第一項1「澱粉製造」)、ここでは、生産地としての地元村々と、江戸問屋との関係についてふれてみる。
 天保十一年(一八四〇)十一月に江戸薩摩芋商人一三六人惣代として、連雀町七兵衛店新助と、牛込揚場六兵衛店佐兵衛が返答書を書いているが、その内容をみてみる。
 当時千葉郡の二四ヵ村惣代として検見川村組頭・源右衛門・天戸村市兵衛の二人が、御用薩摩芋商人を相手取って、規定違反を理由に訴訟を起していたのであるが、それに対する返答書である。それによると、「この訴訟後、御用陸摩芋商人の方へは、在方村々から、芋荷物を一切送ってこなくなった。
 焼芋渡世をしている江戸小前方三〇五人の方へは、在方の出荷地の市兵衛・源右衛門から薩摩芋を送っているらしい。
 在方村々と、今まで芋荷物を取り扱わなかった者が、示し合わせて取り引きしては、御用納方にも困るので、薩摩芋の現地直接取引きを禁止して貰いたい、」との返答と訴状である。これは、江戸薩摩芋商人側の文章であるので、在方の主張などについては不明であるが、幕末によくみられた問屋支配による流通のくずれた一例である。しかしこの問題はなかなか解決をみなかったようである。
 何故なら、天保十二年十二月には、株仲間禁止令がだされているが、この問題も、ちょうどその一年前に当たっており、幕府としても、御用商人側のみを支持する時期ではなかったからである。天保十五年(一八四四)になっても解決せず、新しい段階を迎えたようである。
 やはり「御用薩摩芋納三十七人」の返答書によって、その経過をみてみる。まず、芋荷物の江戸入荷については次のように説明している。
 「以前は、在方の村々が、近くの海岸へ送り出し、そこの船主に荷を頼んで江戸へ運んでいた。在方の村では、高い仕切りをとってくる船主に荷を頼んだから、お互いに船頭も競争で江戸へ運んだのである。(文章からみると、この海岸村とは検見川村をさしている。)
 ところが、天保十四年に印旛沼掘割工事が始まると、新川からの荷出しになったために、一度船積みをかえ、また運賃も多くかかり、時間も余計かかるようになった。
 検見川の船も新川筋からの輸送を断ろうとしたところ、天戸村・市兵衛などは、検見川村の船のうち、十四、五艘だけ、特定の船を用いて、荷を運ぶことを計画し、各村役人からも、村人たちへ、その船へ荷を送るよう申しつけている。
 こうした新しい方法の荷送りは、運賃も、日数も余計にかかり、迷惑している。前々の通りの荷送り方法を命じてもらいたい。」

というような内容である。
 まず前の内容とくらべてみると、四年間の変化がみられる。それは、畑村、天戸村周辺の生産地の村々が、単に、江戸へ直取引きというだけでなく、荷送り方法に一定の組織化を試みたとみられるからである。この場合、村々といっても、八兵衛は在方商人であろうし、村々役人の場合も、従来の御用商人の取引きより、利益が手もとに入ることによって協力したのであろう。
 千葉の薩摩芋は、すでに寛保元年(一七四一)ころには、江戸に出荷して有利に販売していたといわれる(『千葉県甘藷発展誌』一ページ)。検見川、天戸村等を中心にした村々で、薩摩芋が、幕末において広く栽培され、主産地形成がみられるのである。
 明治二年に、犢橋村では、年々五百両を甘藷売り上げによって得るという記述も、こうした江戸後期の千葉郡一帯の畑作地帯にみられる薩摩芋生産の状況を理解できるだろう。