第一項 教育機関

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 明治以来百年の日本の発展の原因を、教育の普及との関係づけの上に立つ考察は、すでに一般化した見解であるともいえる。しかし、近代教育がこのように普及した理由として、明治以前、すなわち江戸時代末期の寺子屋の普及と、庶民の子どもへの教育熱心あるいは、武家階層の藩黌(はんこう)の林立を指摘する人も多い。
 江戸時代の、千葉町における教育の実態が、大体判然とするのは、江戸時代後半期に、入ってからのことである。
 天保五年(一八三四)四月、佐倉藩主堀田正睦は、猪鼻台の陣屋に、佐倉藩黌の分校ともいうべき「南庠」を設けた。これは千葉在住の藩士の子弟の教育機関として設けられたものである。しかしここでは、領内の人民の子弟をも教育したと伝えられている。
 天保七年(一八三六)十月には、成徳書院が設けられ吉見治右衛門が、学校奉行に任ぜられ、南庠は「成徳南庠」と改められた。この時の「被仰出書」の文末に、「右之趣成徳書院は勿論、外の附属の場所迄(筆者註、南・北両庠)師役受業之者へもらさざるよう申達せらるべく候、右者、何々門弟人別等、委敷(くわしく)取調候上、申渡され、千葉は、恩田源五兵衛より、相達し候よう同人江申し越さるべく候、」と述べられている。
 佐倉藩が、千葉に建立した南庠は、堀田家の文書中に「――両庠(南・北)は御人少之場所柄故……。」と度々出てくることからも、藩士の子弟数も、少なかったのであろうが、領内の子弟で、入学する者の数も少なかったようである。もっとも、この時代このような所に、入れる資格をもつものには、制限が加えられたのであろうから、当然の結果であったともいえよう。
 千葉は田舎町であったが、教育史の資料などから推察して、千葉・寒川・登戸・黒砂・千葉寺の各地で、佐倉藩関係の武士や、寺院の僧侶が、子弟を集めて教授を行ったであろうということが推察される。
 これらの中で知られているものとして元治・慶応・明治の初めにかけて、安井息軒の二男敏夫が、東金より移り住み、横町の醤油屋柴田仁兵衛(屋号近江屋)の斡旋により、妙見寺の傍に、私塾を開き、子弟の教育に当たっていた。寺子屋では、寒川に大和橘坪、登戸に香川熊蔵父子、五田保に山本正温・中村某がいた。特に香川熊蔵は師範学校・中学校の習字科教員になり、晩年には、文部省の嘱託となり、国定教科書の書き方手本の作成に当たり有名になった。
 このほかの私塾に、今井町の長谷川藤左衛門、検見川の藤代市産女、千城村坂尾の栄福寺釈乗寛らがいた。なかでも、長谷川藤左衛門は、漢籍および習字にすぐれ嘉永元年(一八四八)正月に塾を開いて以来市原・山武・長生あたりからも、入塾する者があったという。
 検見川の藤代市産女は、検見川町藤代市三の妻で、女性の塾主である。子の藤代市左衛門、孫の市左衛門まで明治の学制領布に至るまでの間約五八年間に、ここで学んだ者の総数はおよそ三千人近くに達したという。また同家に残る門人帳を見ると、ここに記入された門人数一、二七四人中の四分の一が女子であることも、女子教育という点では、注目に価するものであるといえよう。
 栄福寺住職釈乗寛の私塾は、天保年間に創立されて以来、代々引き継がれて、明治年間まで続いたという。ここでの教育内容は、主として最初漢籍、習字の一般教育を施して、後に高度な経義・詩文の指導、修身などを教授したという。