江戸時代における社寺の役割は、それ以前の時代のように、単なる信仰の対象としての存在から、その体質を、大きく変質している。
第一は、幕府が社寺を、幕藩体制を維持させるため、民衆支配の末端機関として活用したことにあろう。それ以前に幕府は、キリスト教禁止以後寛永十四年(一六三七)におこった島原の乱以後、これを相当重大視して慶長末期から実施していた宗教統制を、一層強化していった。これによりどの家も、それぞれ、どの寺を檀那寺とするかを定め、先に森川藩政のところで引用したような「宗門改め帳」(安永三年)が作られ、各家々の家族の中での出生・死亡・婚姻を正確に、記録させた。特に、婚姻を行った場合、檀那寺に届け、その証明を、得なければならないような制度を、確立させていった。この結果寺院は、人々の戸籍の記録係のようなものになってゆき、真の信仰によっての結び付きは、軽視され、行政上のつながりが濃厚になっていき、宗教心は次第に、形式化していってしまう結果を招くようになる。
また神社の神官にも、特別な地位を与え、庶民とは別の存在として、一般民衆の直接の教化階層として位置づけるような配慮が払われた。
なお千葉における社寺の中で、当時から人々の生活と結び付き、今日も存在する代表的なものを次にとりあげてみよう。