寒川神社

101 ~ 102 / 492ページ
 蘇我比〓(そがひめ)神社とともに、延喜式内の古社と伝えられる。祭神は寒川比古命、寒川比売命及び天照大神で寒川の総鎮守とされ、沖合を通る船舶はこれを敬い、必ず下帆の礼を、乗馬の者は、必ず下馬の礼をとったといわれている。神宝の類も数回の火災で焼失して、ほとんど残っていないが、文明十三年(一四八二)の裏書をもつ古獅子面が所蔵されている。
 
 依大破神明獅子面並宮殿奉建立
  干時文明十三辛丑年九月二十日
                       本旦那 民部大夫政吉
                       次旦那 原次郎五郎弼次

(『千葉市の文化財』)


 このほかに、登戸妙見寺と称されていた登渡神社。蘇我町にあり天正十九年(一五九一)に徳川家康が社領一〇石を寄進したという蘇我比〓(そがひめ)神社。源頼朝の挙兵・軍事行動との関連を伝承として伝える白旗神社。千葉常兼が千葉に居館を構えたとき守護神のひとつとして崇めたといわれている稲荷神社、稲毛町にあり大同三年(八〇八)に富士浅間神社より勧請したといい伝えられる浅間神社。院内町にあって仁和元年(八八五)勧請のいい伝えをもつ香取神社などが知られている。また青木昆陽の甘藷栽培で天明の大飢饉を救われた馬加村の人々が感謝の意をこめて弘化三年(一八四六)社殿建立を定めた昆陽神社などは、特色あるもののひとつといえよう。
 右にあげたように、千葉に在る神社は、千葉氏の信仰と関係のあるもの、房総の古社である香取神宮と関連をもつもの、その他の三つに大別される。
 千葉市に現存する寺院は五〇を越えているが、昔はもっと多かったであろうと思われる。それは今日市内に祐光寺・見徳寺・法道寺・堂満橋などの地名が残されていることなどからの推定である。
 このように多く寺院が存在したことは、中世において、豪族や有力者が、他界するとその菩提のために寺が建立され、関係者の遺族や関係者がなくなると、自然に廃寺になっていき、地名などにその名がとどまる程度になってしまう。
 江戸時代になると、寺院の存在意義が、大きく変化したのは、前に述べたとおりであるが、制度的には家々と寺院との結びつきを強くしていった。
 現在残っているこの時代の特色ある寺院についてふれておきたい。