千葉神社が妙見社といわれていたことは、前に述べたとおりであるがこの妙見社の祭礼が始まったのは、『千学集』には大治二年(一一二七)とある。旧『千葉町案内記』に、妙見社祭礼の創始を天福元年(一二三三)としているのは、『千学集』の中にある「結城舟」の始まりの記事と、混同したものかと推察され、異説ということではない。
千葉神社の祭礼は、毎年七月十六日より二十二日(現在は八月六日から二十二日)まで、七日間にわたり行われ、この間に、大祭及び神輿御事の神事が行われ、当時は、神主八人・乙女四人がこれに当たったと、『妙見実録千集記』に書かれている。
千葉神社は、もと北斗山金剛授寺と称し、一般には、妙見様と呼ばれ人々に親しまれた。また当社の祭礼は「だらだら祭り」といわれ戦国時代から江戸時代にかけて、もっとも盛んであった。
連歌師宗祗(そうぎ)の弟子で、駿河国出身の柴屋軒宗長は、関東に下向した。当時京都は、応仁・文明の大乱のさいちゅうで、荒廃し、文人墨客公卿(ぼくきゃくくげ)の中には、地方に下向したものが多くあった。宗長は、永正六年(一五〇九)七月に、自分の草庵を出立し、隅田川を川舟で渡り、市川の真間中山の本妙寺(現在の法華経寺)に一泊千葉へ向かっている。彼のこのときの紀行文『東路の津登(あづまじのつと)』の中に「原宮内小輔胤隆、小弓の館の前に、浜の村の法華堂本行寺旅宿なり……。」と記している。浜の村本行寺は、上総七里法華の根本道場で、日泰上人の開基の寺として、現在も存在している。原氏は、千葉氏の老臣として、その勢力は、隆盛をきわめた。彼は永正六年十月十四日・十五日の両日「千葉の崇神妙見(現千葉神社)の祭礼とて、三百疋の早馬を見物也。十六日は、延年の猿楽、夜に入てことし果てぬ、十七日連歌有……。」と記している。
妙見社関係の祭礼の具体的内容を示している記録としては、現在数少い貴重なもののひとつといえるであろう。特に、妙見信仰が大陸の遊牧民の信仰に起因しているということがいわれているが、信頼するに足る根本的史料は存在せず、祭礼関係の行事などをとおして、推測するほかはないが、この宗長の『東路の津登』の中にみられる「早馬三百疋云々」の記事は、これらに関するひとつの手がかりを与えることでもあり、また現在の祭礼の行事の中には、見られないものでもある。当時はこのほかにもさまざまな関連行事が盛んに行われたことであろう。
また『妙見実録千集記』の中に、「一、結城の舟は天福元年癸巳(一二三三)七月廿日始まるなり。時胤の代なり。御浜下りの御送り船なり。結城村の督(「村長(むらおさ)」の意味)宍戸(宍倉ともあり)出雲と申す者、永鏡の為取立つるなり。今の寒川の事なり。」としており、結城村が寒川の古称であることを記している。
さらに「昔妙見の御屋形、堀の内に御座せし時、惣体七社の宮八人の太夫・四人の乙女集りて、折々神楽を挙げ大旦那、国家安全の御祈願有りしとなり。八人の太夫は第一左衛門太夫左近四郎なり、第二右近八郎、第三弥九郎は笛の役なり、第四兵衛五郎太鼓なり、第五兵衛次郎は小鼓なり。第六民部四郎羯鼓、第七民部五郎太鼓、第八左衛門四郎大拍子の役なり。四人の乙女は第一米市、第二専市、第三松市、第四乙市。此の如く繁栄し云々。」と記している。このように、古い妙見社の祭礼は、断片的にしか伺いしることができない。
江戸時代に入ってからも、祭礼の形式は、そう大きな変化をとげず、幕末まで継承されたとみてよいので、和田茂右衛門が収集した史料を通して要点のみを記しておきたい。
江戸時代の妙見社の祭礼は、七月十六日未明申の上刻(午前四時ころ)神官二名・僧侶一名が門前の役の者や、若者共を警護に引具して、妙見州(寒川神明町地先の海)に赴き、神官は、潮にひたり、斉戒沐浴(さいかいもくよく)、みそぎの行(ぎょう)をなし、海中に手で探り、藻(も)のようなものが手先にふれるので、それをまげの刷毛先へ入れて持ち帰り、神輿の中に入れたという(ここで、神官と僧侶が出るのは、妙見社が神仏混淆であったことを示している)。そして、神輿への御魂(みたま)移しの儀式を行い、午後より仁王門(楼門とも山門ともいった。)脇から香取神社に渡御して、大庭の御仮屋(おかりや)へ安置し、二十日に御浜下りの行事が行われ、二十二日には、裏町から市場町・表町を渡御して香取神社に寄って、本社に還御した。神輿をかつぐ者は、辺田村貝塚村の者たちで、門前の若者たちは、揃いの浴衣で警護に付きそったという。大鉾、太鼓は神輿に先行する。このほか二隻の御舟を出した。
その一つは千葉から出る「男舟(千葉舟)」で、いま一つは、寒川から出る「女舟(結城舟)」であった。舟の大きさは、幅二間、長さ四間で、すべて骨組だけ舟形に造られた荒作りで、寒川舟は宮崎(現宮崎町)の大池に生える真菰(まこも)で俵状に編んだもので装い、千葉舟は葭川の真菰で装い、真中に柱として丸太を立て、白布を巻きつけ、頂(いただ)きに御幣(ごへい)をつけ、周囲に錦襴(きんらん)十二段々染の幕を張りめぐらし、底には六個の車玉を付けた華麗な造りであった。
この二隻の舟は、神輿を送って海中まで行き、神輿より先に上って、寒川舟は、君待橋の袂に休み、千葉舟は、現在の安田(うなぎ屋)の前に休み、共に神輿の還御を待ち合わせた。その間神酒を汲んで、神楽を舞った。その時、町内の特定の家から赤子を一人盛装させ、役の者が舟の上に抱いて上げる風習があった。その由来については、不明であるが、子供の健康な成長の祈願を意味したものであろう。
千葉舟は、浜入りした神輿の還御のころ合を見て、梅屋の前へ出迎え神輿と寒川舟の後について、院内大庭に向って引揚げの途中大橋(現大和橋)にかかると、橋を渡らずに、橋の東側から入って、表町の橋袂に引揚げる「川渡」をする。途中舟の中では、奏楽も面白く、十二段の舞を舞いながら、表中町と、表下町の境近くへ来た時、舟の中の竜頭の冠をかぶった舞方の太夫が、竜田(現・旭町)に向って一礼をするしきたりがあった。伝承では、この竜田と呼ばれる水田から竜が昇天したという故事によって、これを礼拝するという(あるいは、この地が東方に位置するためか)が、相当古くから継承されているしきたりのひとつである。
この舞太夫は、妙見社の祭礼や、神事の際の舞楽人で、祭礼で重要な役をもっていたらしいことは、現存する千葉市内の差出帳の中に「舞太夫下(くだ)され米」として記帳されていることでも推測できよう。例えば延享三年(一七四六)三月寒川村指出帳の中に「米五俵、但寒川御蔵米妙見御祭礼に付、舞太夫江前々下され候。」とあるし、安政二年(一八五五)の千葉町の差出帳にも「米一俵舞太夫下され米」とあるので、祭礼や、神事の上だけではなく、この七日間に及ぶ行事としての祭礼執行上の奉行人でもあったのであろう。当時すでに矛盾を露呈したとはいっても、米経済ともいわれた封建社会の中で、農作祈願の祭事に関しては、為政者も民衆も、ともにこれを支持した結果が、記録の上にまであらわれたものであるといえよう。
寒川舟は、大庭の祭事が終わってから、大和橋の袂まで引付けて、解体して川に流すと、下流の寒川大橋のたもと付近で、これを拾い集めると、一つも欠損なく回収できたと伝えられている。
この大舟の船頭役は、祭礼中最も名誉ある役だといわれ、服装は揃いの着物に縮緬(ちりめん)の襷(たすき)を、何本もかけ、褌も縮緬で三、四本たれふんどしに掛け、大きな火打袋を腰にさげ、扇子を持って、船の上から指揮をとったといわれる。
また妙見社の祭礼は、時期は、はっきりしないが古くから「太鼓祭り」とか「裸祭り」といわれて、有名になっている。これを見物に、近郷近在から、多くの人々が集まったという。五尺ほどもある太鼓を、若者が叩き破ることを、その町内の誇りとしていたと伝えられている。若者の力を誇示する伝統的風習ともいえるであろう。
家々では、軒先に御神燈をつるし、榊の木を立て、渡御の時には、酒・西瓜を出して接待したり、各町々では、山事・踊屋台・飾物を奉納したりしたといわれ、これは明治から昭和初期まで続いた。
このような妙見社の祭礼を検討してみると、『千学集抄』・『妙見実録千集記』(ともに底本を一つにする同類の文献であるが)ともに、初めは、千葉一族の信仰の対象であったものが、次第に領民を包含し、地域の人々の信仰対象となってきている。それ故に、その土地の生産と密接に結びつくようになって、室町時代に柴屋軒(さいおくけん)宗長が、記述したように「妙見の祭礼とて三百疋の早馬を見物なり……。」というような(これとても、祭礼を全て見て記されたものではないようなので判然としないが)で祭礼の形態は近世には見られない。このほかの関連祭事の折に、馬の記事が見られるのは、室町時代の記事までである。
千葉も野馬の走りまわる原野から、次第に開発が進み、村落が形成されていくことによって、前述の如く、この土地の人々の、生業と密接に結びついた祭礼の形が生まれることは当然のことであろう。
例えば妙見社の祭礼における「千葉舟」と「結城舟(寒川舟)」の祭事にしても、この土地の漁業、あるいは水上交通など、人々の生活という背景を無視することはできないと考える。一例には、妙見尊が海に入らないと漁がないという里伝がある。また山車・御舟をひくという祭事は、人口の少ない「散村」ではできないことで、この背景には、千葉が次第に開け、人口が増加していくという、社会事情があると考えられよう。
また、寒川神社と、千葉の妙見社との関係についてもふれておく必要があると思うが、この両社の関係を示す正確な史料が現存しないので、一応の考証を加えておく程度にとどめたい。延喜式所載の、千葉郡寒川神社が現在のものであるとして(異説もあるが)いかに、律令政治によって保証された不輸租の神田をもっていても、香取神宮や、安房神社の如く、独立自営の経済力をもたない寒川神社の場合、平安末期より次第に地方豪族の干渉の手が延びたことであろうし、まして武家政権となった鎌倉時代に至っては、むしろ神社そのものを維持していく上でも、地方の有力武士階級と結びつくことが、有利であったということは、神社の歴史全体をみてもいえることである。寒川神社とてもこの例外にあったとは思えない。そして、その具体的結びつきの一つの事例が、祭礼の場合に、しきたりとして残されているとおもわれる。それ故に、延喜式内社としての格式をもつ寒川神社と、一地方豪族の守護神たる千葉妙見社が、祭礼をともにすることにより、権威を習合させることもあったと考えてよいであろう。鎌倉時代以降、千葉氏が鎌倉幕府の中枢に存在し、房総と鎌倉の往来が主として水上交通に依存していた当時としては、寒川神社は、海上交通の守護神として、千葉氏にとって軽視できぬ存在であったろう。
千葉妙見社の祭礼は、時代の進展とともに、さまざまに形が変化したであろうことは、ここに、改めていうまでもないことではあるが、この中に含まれているさまざまなしきたりは、案外変化せずに継承されていることは、一つの救いであるともいえよう。これらのことを通して、歴史を考える根拠とすることはできないことは当然であるし、また、これらは、歴史研究でいうところの一等史料ではないので、これで歴史を論ずることも不可能であるとも思われるが、大衆参加の行事としての祭礼は、それぞれの時代の、歴史のうつりかわりの中で、先例を踏襲して営まれ続けたものであるので、もっとも民衆の身近かな存在として、歴史をかたる一つの手がかりを我々の前に提示してくれるものであるともいえよう。
明治維新の神仏分離令の施行されたとき、佐倉より出向した役人によって、千葉妙見社は寺として永続するか、神社とするかと選択を迫られたとき、寺として残れば、永い間実施してきた祭礼ができなくなるので、寺を廃し神社にするとの返答に、役人側から祭神は何かと尋ねられ、妙見尊にすると答えたところ、妙見尊という神様は、我が国にはないといわれて、神官の千葉良胤始め氏子・世話人一同当惑して、明日まで回答の延引を願い、役人を「近江屋」で接待している間に、皆々相談し、結局、妙見尊は北辰星の神で、北斗妙見ともいうので、世にいう天地創造の神「天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)」と一脈通ずるところありとして、「天御中主命」を祭神と定め(このほか当社の祭神は経津主命と日本武尊がある)報告したというエピソードを、当時その事に参画した妙見社門前の世話人和田定右衛門が子孫に語り伝えている。
この一事例をみても、当時の人々が、いかに祭礼中心に、ものごとをみていたかということ、祭事を自分たちの代で絶やしてしまってはならないという考えを、強くもっていたことを知ることができよう。
明治になると太陽暦の採用などで地方で行われていた祭礼も、そのままで実施することが、人々の生業に支障を来たすようなことも、多くなりこれに合わせて一カ月遅れで実施されるようになったものが民俗行事の中には多い。妙見社も「千葉神社」と改称され、明治中期からは八月十六日から二十二日までの七日間となった。
このように、千葉神社の祭礼は、妙見社時代の神仏習合の祭事から、明治に入り、千葉神社の祭礼へと、表面的に変化をみせても、その本質は、以前の祭事を、先例に従い、踏襲してきていることは注目すべきことであろう。