千葉において、この代表的なものといえば、浅間神社(千葉市稲毛町大山)の神楽があげられる。
浅間(せんげん)神社の神楽(千葉市稲毛町,森田良氏撮影)
浅間神社は、その社伝によれば、大同三年(八〇八)五月に、富士浅間神社より勧請されたと記されているがここにとりあげた「十二座神楽」は、永正元年(一五〇四)九州より来た当時の神主大越蔵之助が、村人たちに伝授したのが、起源であるとされている。毎年七月十五日の夏祭りの時に行われる。
神楽の内容は、次のようになっている。
- 巫女の舞(みこのまい)
- 猿田彦命の舞(さるたひこのみことのまい)
- 五穀豊穣祈願の舞(ごこくほうじょうきがんのまい)
- 事代主命の舞(ことしろぬしのみことのまい)
- 大国主命の舞(おおくにぬしのみことのまい)
- 三韓征伐の舞(さんかんせいばつのまい)
- 山神退治の舞(やまのかみたいじのまい)
- 鍛冶屋の舞(かじやのまい)
- 大蛇退治の舞(おろちたいじのまい)
- 翁の舞(おきなのまい)
- 天の岩戸開きの舞(あまのいわとびらきのまい)
- 御囃子の舞(おはやしのまい)
以上十二座から成立している。郷土の芸能とされてはいるが、この伝来のいわれからみてもわかるように、千葉の歴史上の事実と直接関係をもった内容のものは全くない。
内容を整理してみると、巫女の舞は、神を招きおろすための、神懸りと、清めの意味をもち、当社の祭神である猿田彦命の舞から、天の岩戸開の舞までは、日本神話を根底にしたもので、最後の御囃子の舞は、神を送るための舞であるといわれている。すべて無言劇の形態をとり、全員が仮面を用い、能舞台を模した神楽殿で行われる。これは、江戸神楽の影響を受けていることを示すもので、千葉県全体の中でも、特色あるものの一つとしてみられるであろう。現在は千葉県指定無形文化財とされ、同時に市の無形文化財ともされている。
このほかに、子安神社(畑町)に伝わる「湯立の神事」も、注目すべきものであろう。これは、毎年十月十七日に行われるもので、神前に釜を据え、湯を沸かし、神主が、笹の枝をひたし、周囲に集った人々の頭上にふりかけて、凶事を払う。笹は幣束と同じで神力の表示でわが国に、古くからある卜占の一種で、出雲大社をはじめ、わが国の古い神社によくみられる行事である。しかし、子安神社のように、地方の小社において、このようなことが行われることは、珍らしいことである。これは、芸能といわれるものの範囲ではないが、神事を郷土芸能の中に広くとり入れる例もあるので、一応記しておく必要があると思いとりあげた。
子安神社湯立の神事
千葉には、多くの神社や寺院が存在するので、かつては、それぞれの寺社において、伝統を受け継いだ行事が盛んに行われたものと推測されるのであるが、現在の時点では、具体的に知られるものが大変少ないことは残念なことでもある。ここでは一応現在その形をとどめているものを中心にとりあげた。この子安神社にも、神楽が伝わっている。これも次の十二座(十二の場面)から成立っている。
○祭輿古代御神楽十二座式
- 庭掃舞並衢神六合堅目舞(にわはきのまいならびにちまたがみろくごうかためのまい)
- 八重事代主神鉤舞(やえことしろぬしのかみかぎのまい)
- 老翁神悪神払舞(ろうおきなかみあくじんはらいのまい)
- 伊弉諾伊弉冊大神(いざなぎいざなみおおかみ)碬取盧島舞
- 千箭発弓舞(ちのりはっきゅうのまい)
- 素盞鳴尊大蛇退治舞(すさのおのみことおろちたいじのまい)
- 湯笹露払舞(ゆざさつゆはらいのまい)(前述のもの)
- 石礙姥神天目一神二神鍛冶舞(いしこりどめのかみあめのまひとつのかみにじんかみのまい)
- 天狐乱舞(てんこみだれまい)
- 天鈿女神遊行舞(あめのうずめのかみゆうきょうのまい)
- 稲倉魂神五穀蒔舞(いなしこめのかみごこくまきのまい)
- 大山祗神悪魔退散舞並豊楽餅投舞(おおやまずみのかみあくまたいさんのまいならびにほうらくもちなげのまい)
このほかに、三大王神社(武石町)、一般に武石明神ともいわれ(祭神として天種子命をまつる)ているところでも神楽を行っている。この神社は、千葉常胤の三男武石三郎胤盛が、城館を構えて以来崇敬したと伝えられ、社殿は、享保年間に修築されている。武石明神といわれたのは、江戸時代の宝暦年間以来のことで、三代王神社と称されたのは、寛政八年(一七九六)以降のことである。
三代王神社の神楽千箭発弓舞(千葉市武石町)
この神社の神楽が、いつごろから行われるようになったかは、明確ではない。しかし、これも十二座からなる神楽で、その内容は次のように分けられる。
- 岐神六合堅目舞(ちまたがみろくごうかためのまい)
- 翁鎮悪神舞
- 千箭発弓舞
- 天狐乱舞
- 湯笹露払舞
- 八重事代主海幸舞
- 磐長姫(いわながひめ)遊行舞
- 保食神御種蒔舞(うけもちのかみおんたねまきのまい)
- 神剣御調舞(しんけんおんしらべのまい)
- 八咫宝鏡舞(やたのたからかがみのまい)
- 神手誓約舞(かみてせいやくのまい)
- 山神豊楽舞
右にあげたものが表舞事と称されるもので、裏舞事として、このほかに、佐用神楽(さようかぐら)・神明奉清(しんめいほうせい)・神麻称岐・末広神明憑談・湯笹露払・神鏡御貢(しんきょうみつぎ)の舞などが行われる。
これら十二座式神楽は、毎丑・未の年に三市一郡にまたがる神社連合祭(式年大祭)に、現在も行われている。
このほかの神楽として八剣神社(南生実)のものも現在行われている。
これら神社に伝わる郷土芸能としての神楽が、どのようにして、私たちの郷土に入り、伝えられるようになったか、判然とはしていないが、二宮神社(船橋市三山町)系統の神代十二座式の神楽であると推測されている。
このような郷土芸能を伝承することは、容易なことではなく、前にあげた子安神社の場合などは、現在でも毎年寒中稽古と称し、二週間の実技練習を、行っているという。無論これだけでは充分その効果をあげることはできないであろうから、このほかに、表面に出ないさまざまな苦心が以前から払われたであろうことは、充分察せられる。
このほか、御霊神社(小食土(やさしど)町)の獅子舞も、郷土芸能として伝承されたものの中の一つといえよう。これは、毎年秋の豊穣感謝の意味をもって、行われるもので、この場合すべて、町内の惣領の男子によって、行われる。二、三男では、折角獅子舞を習わせても、他の土地へ行ってしまう可能性が高いので、惣領に、これを習得させて芸能の保存につとめているものであろう。
この獅子舞がいつごろから始められたか、明白ではないが、ここに、残る古い獅子頭は、布おきの金箔の目、ねじりまゆで、二百年以前に作られたものであろうとみなされている。この獅子舞には、舞方二人、囃方として笛二人、かね一人、鼓四人、太鼓(太鼓一。平太鼓一)一人で行われる。この内容は、十種類余りの囃(中山囃・鎌倉囃・ちょいばか囃等)にあわせて、ひら獅子舞・布舞・幣束舞・鈴舞・小狂舞・大狂舞・馬鹿踊・玉釣踊などが行われる。
御霊神社の獅子舞(千葉市小食土町)
このような獅子舞は、大金沢の六通神社でも行われている。ここには、獅子舞に関する次のような史料が残っている。
恐れながら書付を以て願い上げ奉り候
御領分上郷名主年寄組頭一同申上げ奉り候、六通新田の義、九月十九日山王祭礼ニ御座候処、往古より神楽と唱ひ獅子頭村内軒別ニ持ち歩行、安全の為悪魔を払い来り候処、去る天保六未年中村内のものども心得違を以て、御趣意に相振候儀仕出し候ニ付、御出役御見廻り先にて、御召捕ニ相成り重々恐入り奉り候、これに依り其後神事之節、神楽獅子持ち歩行の儀、御差留め仰せ付けられ恐入り、一同御趣意堅く相守り相慎罷在り候処、近年流行之疫病これ有り、村方の者ども難渋仕り候に付、先年の通り村内安全の為、右獅子取り出し村内悪魔を払い候はば、自然と悪病もこれ有るまじきと相談仕り、これに依り何共恐れ入り奉り候えども、右獅子取り出し、先年の通り悪魔を払ひ申し度く、恐れ乍ら存じ奉り候、勿論其節猥に相成らざる候よう、村役人立会い御趣意堅く相守らせ申す可く候間、何卒格別の御憐愍(ごれんびん)を以て右願の通り仰付けられ下し置かれ候よう、御沙汰の程偏(ひとえ)に願上げ奉り候、以上
嘉永四亥年九月十一日
組頭 市太郎
同 五郎七
同 十右衛門
同 辰五郎
(中略)
年寄 善兵衛
名主 五郎左衛門
御役所様
嘉永四亥年九月十一日
組頭 市太郎
同 五郎七
同 十右衛門
同 辰五郎
(中略)
年寄 善兵衛
名主 五郎左衛門
御役所様
この史料は、森川藩領大金沢村の、獅子舞に関するものであるが、村内から不心得者を出して以来「お上(かみ)」に遠慮して、獅子舞を中断していたが、近年疫病の流行などにより、悪魔退散のため、これを復活する事を、許可してほしいという趣旨のことを述べている。これは、当時どのような理由で獅子舞・神楽などが行われていたものかを知る上で、良い手懸りとなるものであるといえよう。