「近年浪人などと称する者が、村々百姓家へまいり、合力を要求し、少しの合力銭(ほどこし銭・めぐみ銭)を差出すと、さんざん悪口におよび、あるいは一夜のとまりを強要し、翌日になると今度は病気で動けないなどと四日も五日も居すわり戦術に出る始末で、そのあいだには色々と難くせをつけ、百姓家に迷惑をかけ、合力銭をよけいにねだりとる者があるということである。これはまことに不届千万の至りである。今後このような者があらわれたならば、その筋の者に捕えさせ、すみやかに江戸の公事方勘定奉行のところに報告するようにする。もちろんこのような浪人者が村方にあらわれたならば、今後決して止宿をさせてはならない。かつ合力もしてはならない。もし村方においてこのきまりに反する者があればきびしく追求する。」
と述べ、無宿者に対する対策を示し、この御触書をうつしとり、惣百姓に伝達するとともに、村はずれや、村役人の家の前に張りおくよう指示している。
一般的にみて、関東の農村は、一村が何人かによって分割支配されることが多く、犯人逮捕の上からも、まことに面倒な支配組織下にあったとみてよい。例えば罪をおかした者があっても、となりの他の領主の村に逃げこみ、ここを捜査すると、すでに犯人はさらに他の領分の村に潜伏するというように、犯罪捜査の上からも、大きな盲点をもっていたといえる。悪質な浪人者と称する悪党者が、はびこるようになったのも、一つには、このような支配組織の盲点に根ざしていたとみられる。もとより領主が小領主で、自己の知行村の治安を十二分に確立できなかったことに大きな原因があったであろう。
ところで、千葉市域の村々は前にも述べたごとく、佐倉藩領・森川藩領(生実藩)の村々があり、それとともに旗本領・代官支配所・寺領が交錯しているところもみられた。
まず天明年代(一七八一~八八)の森川藩領の下郷(しもごう)とよばれる村々の「連印一札」によるとつぎのとおり述べている。
相定め申す一札の事
一、下郷の内刈田子村、谷津村、駒崎村、豊前方右四所とも惣百姓村向き相談事等、その外村役人え相願出候事等、郷中一統ニ致来り候得共、左候ては何事によらず大行に相成りよろしからざる候につき、当年より四カ所共に壱カ村切りに引分け申すべく候事、
一、惣百姓何事によらず申談ずることこれあり候共、その村切りに評義致すべく候、かつ又願いの筋これあり候者は前広に近所ならびに五人組へ相達し、内済に相成り候はば、其村の組頭へ申出でべく候事、
(中略)
一、新規に家作仕り候者これあり候はば、村役人へ申届け、差図を相待ち申すべく候、窺わず候てみだりに家作致すまじく候事、
一、何事によらずものさわがしき義御座候はば、隣家の者その外いずれの人たりとも早速打寄り、取しづめ申すべく候、わけて向う三軒両隣等の者、決して見のがし聞逃し申すまじく候事、
一、若者ども不埓これあり候につき、自今以後四カ所ともに若者仲間、決して相立て申すまじく候事、
一、四カ所引分け候上は、願の筋これある者は、銘々四カ所村役人へ申出るに及ばず、その村の組頭へ申出でべく候事、
右七か条のおもむき、郷中へ仰せつけられ承知奉り候、子供、召使等にいたるまで急度申聞かれ、堅く相守り申すべく候、万一相違の者御座候はば、何分にも仰せつけらるべく候、後日のため連印よってくだんの如し、
天明六午年
四月 谷津村
弥兵衛外三二名連印略
豊前方
角右衛門外一八名連印略
駒崎村
惣左衛門外一一名連印略
刈田子村
彦七外四一名連印略
下郷名主組頭衆中
相定申一札之事(天明6年,森川藩領下郷)<高梨廣璋氏蔵>
これは天明時点における森川藩領村々の動向の一端をものがたるものである。この「一札」は、村役人から惣百姓へ、履行事項を申渡したことに対し、惣百姓が連印して村役人(しかもこの場合は下郷という数カ村をあわせた単位となっている)に対して、確認の一札を提出したものである。これらの条々をみると明らかなように、森川藩領の村々でも、天明あたりをきっかけとして、村内の秩序が動揺してきたことを暗に示すものである。しかも村役人をして惣百姓に対して、かかる履行事項を布達せしめたのは、もちろん藩の役人であり、藩が村々に対して、一つの動揺に対する対応策をうち出したことを意味する。
特に数カ村合同の出願・訴訟を禁じ、村かぎりとし、あるいは若者仲間編成の禁止や、村落共同体の共同規制をより強化している動向は特に見逃すわけにはいかない。
もっとも、これらの森川藩領は一村一給、つまり一村すべてが、森川藩領であったから、村落のとりきめごとの遂行などにも比較的円滑に事をはこぶことができた。もし一村が、何人かの領主により、分割支配されている場合は、一村ないし数カ村をそうやすやすと一つに統制することは至難のわざであった。したがって、右のごとき一村一給の村の場合は、村内の統一、村と村との関係をとりまとめる場合にも、たしかに恵まれていたといって決して過言ではない。
それにくらべると相給の村々は、藩領一給の村々のようにはいかなかった。ことに村落の内部にいままでと違った動揺・変化がおこってくると、幕府も、新しい村落支配の政治体制をつくり出さざるを得なかった。村落の動揺・疲弊は、しばしば見舞う災害や凶作によって、拍車をかけられたことも否定できない。
文化二年(一八〇五)六月に創置された関東取締出役の制は、すでにのべた関東の村々のありさまに対して、幕府がとった対応策として、きわめて注目されよう。しかもそれは、江戸をとりまく関東一円、しかも原則的には、水戸藩領をのぞいた村々の補強策として出役の制度が、大きくクローズアップするところに、画期的な意味を見出すこともできよう。