第二項 組合村の動向

116 ~ 118 / 492ページ
 第一項でふれたが、幕府は江戸をとりまく関東一円の治安の悪化に対して、対応策をうち出していった。それは文化二年(一八〇五)六月に創置された関東取締出役の制にはじまる。取締出役の制は、はじめ二カ年の臨時の制度であったが、その必要性がみとめられ、幕末まで存在したのである。ことに幕末になると博徒が多くあらわれて、取締りの必要が生じ、出役の行動目標も、おのずから博徒の逮捕、無宿者の逮捕に主力がそそがれた。その結果、多くの実績をあげたことはいうまでもない。しかし、なにぶんにも広い関八州を、わずか一〇人前後の出役がパトロールするだけでも大変な仕事であり、無宿者の集団徒党化には対抗できないうらみがあり、組織的な取締り態勢を確立することが急務となった。
 すなわち、文政十年(一八二七)の取締改革にもとづく関東一円にわたる組合村の設置は、まさしくこのような取締体制の組織化のあらわれであり、村々の連合体である組合村を編成して、出役の下部機構としての機能をもたせることにより、より取締体制を強化しようとするものであった。なお、関東取締出役の移動範囲は、関八州であるが、このうち水戸藩領については、対象外であったとみられるふしがあるが、出役設置当初には、出役が水戸藩領内に立ちいたっていることがわかる。
 次に検見川村馬加村最寄二五カ村組合の「組合村仰せ渡さる御請証文」をみてみよう。

検見川村・馬加村最寄25カ村組合御請証文の一節(文政11年,複写による)

 鎗鉄炮等携え候者は勿論、長脇差等を帯し又は所持致し歩行候者ども御召捕え、悪事の有無、無宿有宿之差別無く、死罪そのほか重科に仰せつけらるべく旨御触これあり、右の趣銘々支配領主地頭より触れ知らせ承知の上、小前末々へ村役人ども精々申諭し、世話致すべく儀に候えども、右躰厳科に仰せ出され候も、百姓風俗を悪に移さざる様にとの 御仁恵につき、ありがたき仕合せに承り奉り、良民の[   ]捨ておかず、村役人ならびに小前一同申合せ搦押え、その支配領主地頭又は御取締様方御廻村先へ差出し、いささかの心得違、不身持の者どもへは厚く利解申諭し、本心に立帰り家業出精致し候様もっぱらに心掛け丹誠致し、若しその上にもやむを得ざること不身持に候はば、是れまた御廻村先へ密々御訴え申上ぐべく、この上悪者ども徘徊致し候て、村役人ども制し方不行届ケ故(ママ)につき、そのところにより急度御取斗いなさるべく候事、

 一、村々のうち悪者徘徊致し、また無商売の者差置き候は、村役人は勿論、小前末々のもの五人組前書相弁えざる故につき、農暇又は休日等に再々村役ども読聞かせ、急度相守り申すべく候事、

 一、近来世上一統とは申しながら、なかんずく関東筋村々別て奢に長じ、神事祭礼婚礼仏事等、前々より格外に相成り入用多く相掛り、困窮難儀ニおよび候おもむき、村役ども申合せ、質素倹約専一に取斗らい申すべく候事、

 一、在々において歌舞伎、手踊、操芝居、相撲そのほかすべて人よせがましき儀は、前々より御法度のところ、近来みだりに相成り、所々にて芝居等相催候おもむき相きこえ、是迄御仕置仰せつけられ候向もこれあるところ、未だ相止まず、芝居催し候跡にて御聞きに及び候とも、右催し候者はもちろん、芝居道具貸しつかわし候者迄もきびしく御ただしの上、其の筋へ御差出しなされ候につき、村々役人共においても、小前末々迄差留め申すべく候事、

 一、近来小前末々のものとも心得違にて、農を怠り商いをもっぱらにいたし、田畑作り余り、高持百姓難渋におよび候由につき、農家にて商売致し候は、自然にそのところおごりに長し候基い、よろしからざることにつき、新規に商い相始め候は勿論、追々相止め候様心掛け候事、


 右のおもむき精々御理解これあり、一同承知おそれ奉り候、しかる上は此後おこたりなく小前末々へ申聞せ、違失なく相守り申すべく候、万一等閑に致し無商売のものに店貸しおき候か、又は悪者の宿等致し差置き候者これあり候はば、当人は申すに及ばず、親類、組合村役人一同何様とも仰せつけらるべく候、よって御請け印形差上げ申すところくだんの如し、
   文政十一子年四月
             下総国千葉郡
              検見川村
                  最寄
              馬加村
                弐拾五ケ村儀定書
   関東筋御取締御出役
    山田茂左衛門様御手附
    武藤僖左衛門殿
   柑本兵五郎様御手代
    森 東平殿
   御同人様御手附
    松村小三郎殿

 右は要するに、下総国千葉郡検見川村、馬加村最寄二五カ村の組合村としての「御請書」にほかならない。二五カ村とは畑村・宮ノ木村・萩台村・東寺山村・作草部村・高品村・武石村・殿台村・小中台村・西寺山村・黒砂村・薗生村・小深新田・横戸村・実籾村・勝田村・花嶋村・犢橋村・稲毛村・柏井村・天戸村・坊部田村・長作村・検見川村・馬加村の諸村で、このなかには現在の千葉市域からはずれる村も若干ふくまれる。たとえば実籾村などがそうである。
 このように組合村は取締出役の下部機構として二五カ村前後の規模として編成された。右の検見川村・馬加村最寄二五カ村が編成された文政十年の翌年に、出役に対して「御請書」を提出していることがわかるから、他の千葉市域の村々も、ほぼこのころには編成をおわったものと推察される。なお、文政十年(一八二七)編成にあたって、取締代官を通じて出役から勘定奉行に提出された「伺書」によると「是迄組合これある村々はそのまま差置、組合これ無き所は凡そ四五カ村目当に致し組合せ、もっとも土地の遠近村高の多少等、差別もこれあり候へ共、まず右等の儀目当てに致し。」とあるから、幕府の指令では凡そ四五カ村編成が原則であったことがわかる。もっともこれは原則であり、土地の事情により、増減があってもかまわないとのべている。右の検見川馬加村組合は基準より小規模な組合村であったことがわかる。しかも、この組合村は、検見川村と馬加村が、その中核としてのはたらきをしたことはいうまでもない。
 ところで右の「御請書」をみると明らかなごとく、組合村の編成ならびにひろく取締出役の機能がかなりよく表明されているであろう。
 文政十年における組合村の編成をきっかけとして、政治史的には、これを文政改革とよんでいる。すなわち、文政改革における組合村編成は、関東における治安の不備に対応して、幕府が関東取締出役の下部機構として組合村を編成し、悪党者の捕縛、風俗の矯正、農間商人の規制措置をおこない、江戸のおひざもとの関東の治安を安定するところに大きな政策上のねらいがあったのである。特にのべておきたいことは、出役が単なる治安の安定策に努力するのみならず、いわゆる村々の経済統制にも関与していることは見逃すことができない。
 市域全般にわたる組合村の編成とその動向については、今後の調査に負うところが大きく、一つの研究課題であろう。