第三項 幕末の千葉

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 幕府政治の変質の一つのあらわれとして、一揆、打ちこわしなども起こった。千葉町の場合をみると次のとおりである。
 天明七年(一七八七)五月二十七日、千葉町に打ちこわしが起こった。天明年間は全国的に飢饉による百姓一揆が起こり、天明三年には、佐倉藩領の印西筋、成田筋で不納年貢の支払いをめぐって一揆が起こった。
 江戸でも、天明七年五月二十二日に大規模な打ちこわしが起こり、米屋九八〇戸がこわされた。この年は、米価騰貴が激しく、同年だけでも全国でそれを理由に七〇件近い百姓一揆が起こっている。
 千葉町の打ちこわしは、五月二十七日の夜、約三百人が参加して、米商を中心に九軒の家が打ちこわされ、寒川でも七軒、登戸では二軒が打ちこわされた。打ちこわしの対象となった家は次のとおりである。
 (千葉町)岩田屋新四郎、湯屋万右衛門、村田所左衛門、柏屋治兵衛、近江屋源六、鍋屋喜八、炭屋善五郎
 (来迎寺門前)釜屋儀兵衛、酒屋久四郎
 (寒川村)七兵衛、彦八、佐右衛門、与市、市兵衛、久右衛門、九郎左衛門
 (登戸村)七兵衛、嘉七
 佐倉藩では、物頭三人を含めて、手代、同心四八人を動員して、鎮圧に当たった。
 この打ちこわしで、二一名が捕えられ村預りとなった。千葉町五名、寒川村一〇名、登戸村六名である。処罰は、五人の追放を中心として、戸〆、領内徘徊禁止などである。その中心は、若者であり、無宿者二名が含まれており。下層民、下層農民、無宿層に属する青年たちだろうといわれる(『佐倉市史』巻二、一一三~一一四ページ。『譜代藩政と明治維新』五三ページ)。
 幕末の慶応二年(一八六六)六月に、千葉町で、米価高値を理由に強訴が起こった。千葉町小前二七四人が、米屋を相手に交渉し、その代表一〇名が、米高値について佐倉へ出願する途中で、役人に阻止された事件である(『譜代藩政と明治維新』二四〇ページ)。
 この事件は、それ以上に拡大しなかったようであるが、この年も、全国的に米価騰貴のため、百姓一揆や、打ちこわしが多かった年である。五月十七日には、木更津でも打ちこわしがあった。
 特に埼玉県北部に、六月十三日から起こった武州一揆は、規模も大きく有名である。
 以上、天明の打ちこわし、慶応の強訴事件をみてきたが、全国的な一揆の状況の中で、千葉町の場合もこのように起こっているのである。
 前にみたように、無高、零細農の増大は、やはりこうした事件と関連があろう。多くの零細農の増加は、商品経済の進化の中で、階層分解が進み、商品経済の進んだ地域ほど激しいといわれるが、千葉町も前にみたようにこうした状況がみられるのである。江戸に近いうえに、房総の街道の要衝にあり、馬稼ぎや、日雇稼階層がかなりみられたと思われる。凶作、政情不安による米価騰貴を中心にした物価騰貴は、こうした無商、零細農、水呑百姓層を、極度に苦しめ、こうした打ちこわし、強訴事件の素地をつくったといってもよかろう。