かくて幕府は、祖法を墨守することの困難さを、身にしみてさとったのである。ことここにいたって、一五代将軍徳川慶喜は、天下の事態の容易ならざるをさとり、土佐藩主山内豊信のすすめにしたがって、慶応三年(一八六七)十月十四日将軍職を奉還することになった。かくて同年十二月九日には、王政復古の大令が発布された。いっぽう薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らは、幕府の兵力や、財力を取り上げなければ効果がないと主張し、幕府領の返上を要求した。このような情勢下にあって、慶応四年(一八六八)正月三日には、京都の鳥羽伏見両口において、薩摩・長州・土佐の兵と、旧幕府会津・桑名の軍が対戦したが、たたかいは一日にしておわり、旧幕府方は大敗した。前将軍慶喜は、大坂城を脱出して、海路江戸に向かった。かくて慶応四年九月八日改元、明治元年となったのである。
慶応四年三月、下総野鎮撫府の名前で、村々に布達された「教諭書」の一節につぎのとおりある(『薗生村御廻状之扣』による)。
そもそもこのたび王政御一新と申す者(ママ)、万民の疾苦ヲ救へ(ママ)、おのおの安堵せしめ候様との宸慮に候ところ、下々には御趣意を感戴奉らず、あるいは心得違等いたし、わずかに徳川三百年の恩顧を思い、日本開闢以来 天朝数年の鴻恩を忘れ候ものこれあり、殊には徳川 天朝の役人にて、徳川の恩はすなわち是れ天朝の恩なることを知らず、愚昧のはなはだしきにあらずや(中略)、自然教諭の旨も相用いず、なお悪行相働候者急度訴えべく候、(後略)
とのべ、新しい時代の到来を表明していることを見逃してはならない。
薗生村は代々旗本山名氏の知行村であった。同じく慶応四年辰十月吉日の同村「御用留扣帳」によれば、つぎの「達」が村方に触出されている。
達
旗下上(ママ)地の分当秋御収納の義は、先納あるいは先々納等、それぞれ困窮の地頭より申付候村々も、少なからざることこれあり候えども、今度 王政御一新については、前領の廉合申立て、私の都合をもって天朝えの貢相立ざる候ては、御初政の御廉これなくにつき、右上地の分一般に当年の分、残らず 朝廷え貢献のこと、
但し水損の場所は知県事にて検見の上、相当の年貢取上げべきこと、
一、これまで地頭え先納の分、確証を以てことごとく帳面取調べ、差出し申すべく、下民難渋場(ママ)申さざる様、かならず御所置これある事、
但し徳川家え奉職の者は、村方え返済方、同家え取調申し達すべきこと、
脱走のむきは政府にて取調べ、割合をもって年賦下渡しのこと、
(後略)
右の布達は、それぞれ新しい時代の到来を大なり小なり表現しているであろう。
こうして、大政奉還によって、政権は皇室のものとなった。ペリーが来航してから一五年後のことである。明治天皇は王政復古の宣言を国の内外におこない、ここに新しい政治への第一歩がふみ出された。幕府に仕えていた武士のなかには、これを不満に思って乱を起す者もあったが、まもなくこれも治まり、新政府の威令がしだいに全国に及ぶようになった。
4―7図 千葉町の職業分布図(明治初年,和田茂右衛門氏作成)