第四項 新しい社会への機運

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 長い伝統をもち、よくまとめられていた徳川氏による幕府政治も、幕府のいくたびかの努力にもかかわらず、次第にゆきづまりをみせてきた。それは、本質的には、幕府政治の基礎である武士を中心とした社会の根底をなした土地をもととした経済に、大きな変化があらわれたことによるものである。それにともなって、学問が次第にさかんになり、新しい国学や洋学等がおこってくると、人々のなかには、新しい考えをもつ者もあらわれた。ことに複雑な外交問題は、幕府をしばしば苦境におとし入れた。
 かくて幕府は、祖法を墨守することの困難さを、身にしみてさとったのである。ことここにいたって、一五代将軍徳川慶喜は、天下の事態の容易ならざるをさとり、土佐藩主山内豊信のすすめにしたがって、慶応三年(一八六七)十月十四日将軍職を奉還することになった。かくて同年十二月九日には、王政復古の大令が発布された。いっぽう薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らは、幕府の兵力や、財力を取り上げなければ効果がないと主張し、幕府領の返上を要求した。このような情勢下にあって、慶応四年(一八六八)正月三日には、京都の鳥羽伏見両口において、薩摩・長州・土佐の兵と、旧幕府会津・桑名の軍が対戦したが、たたかいは一日にしておわり、旧幕府方は大敗した。前将軍慶喜は、大坂城を脱出して、海路江戸に向かった。かくて慶応四年九月八日改元、明治元年となったのである。
 慶応四年三月、下総野鎮撫府の名前で、村々に布達された「教諭書」の一節につぎのとおりある(『薗生村御廻状之扣』による)。
 そもそもこのたび王政御一新と申す者(ママ)、万民の疾苦ヲ救へ(ママ)、おのおの安堵せしめ候様との宸慮に候ところ、下々には御趣意を感戴奉らず、あるいは心得違等いたし、わずかに徳川三百年の恩顧を思い、日本開闢以来 天朝数年の鴻恩を忘れ候ものこれあり、殊には徳川  天朝の役人にて、徳川の恩はすなわち是れ天朝の恩なることを知らず、愚昧のはなはだしきにあらずや(中略)、自然教諭の旨も相用いず、なお悪行相働候者急度訴えべく候、(後略)

とのべ、新しい時代の到来を表明していることを見逃してはならない。
 薗生村は代々旗本山名氏の知行村であった。同じく慶応四年辰十月吉日の同村「御用留扣帳」によれば、つぎの「達」が村方に触出されている。
 
      達
 旗下上(ママ)地の分当秋御収納の義は、先納あるいは先々納等、それぞれ困窮の地頭より申付候村々も、少なからざることこれあり候えども、今度  王政御一新については、前領の廉合申立て、私の都合をもって天朝えの貢相立ざる候ては、御初政の御廉これなくにつき、右上地の分一般に当年の分、残らず  朝廷え貢献のこと、
  但し水損の場所は知県事にて検見の上、相当の年貢取上げべきこと、

 一、これまで地頭え先納の分、確証を以てことごとく帳面取調べ、差出し申すべく、下民難渋場(ママ)申さざる様、かならず御所置これある事、
 但し徳川家え奉職の者は、村方え返済方、同家え取調申し達すべきこと、
脱走のむきは政府にて取調べ、割合をもって年賦下渡しのこと、


   (後略)
 右の布達は、それぞれ新しい時代の到来を大なり小なり表現しているであろう。
 こうして、大政奉還によって、政権は皇室のものとなった。ペリーが来航してから一五年後のことである。明治天皇は王政復古の宣言を国の内外におこない、ここに新しい政治への第一歩がふみ出された。幕府に仕えていた武士のなかには、これを不満に思って乱を起す者もあったが、まもなくこれも治まり、新政府の威令がしだいに全国に及ぶようになった。

4―7図 千葉町の職業分布図(明治初年,和田茂右衛門氏作成)