第一項 戊辰戦争

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表写真 市制施行のころの航空写真

 徳川幕府の衰退と薩・長両藩などを中心とする勤王派の抗争は、国内を二分しての対立となり、血なまぐさい争いが国内各所で頻発していた。そんなときに起こされたのが戊辰戦争である。
 戦いは慶応四年(明治元年、一八六八)正月の三日に始まり、明治二年五月十八日までの一年五カ月にわたって日本各地で勤王派の薩長などの連合軍と幕府軍との間で激しい戦闘が展開された。
 戦端のきっかけとなったのは、慶応四年の正月三日、京都の鳥羽、伏見において朝廷側についた薩摩、長州、土佐の藩兵と幕府側の会津、桑名藩などの両軍が対戦したが、実質的な戦いは一日間で終わり、幕府側は大敗してしまった(対戦の歴史的要因はいろいろあるが、ここでは省略する。)。
 実質的な戦いは一日で終わったといわれているが、大山柏著『戊辰役戦史』によると、三日間行われたといわれる。
 以後、国内各地で断続的に戦闘が展開されていることは、歴史書の示すとおりである。千葉市が、この戊辰戦争の舞台として史実に登場してくるのは、慶応四年四月で、鳥羽、伏見の戦いから、ちょうど三カ月後のことである。
 わが千葉市(当時は町)は佐倉藩の所領地と旗本領のほか、生実藩などの領地であったが、佐倉藩、生実藩は、ともに勤王の誓書を出していたので、激しい戦火には見舞われなかった。
 しかし、慶応四年四月十一日から十二日にかけて江戸城の明け渡しが行われたさい、多数の幕府軍兵士が脱走し、朝廷側に反旗をひるがえした。その最大の脱走は、歩兵奉行・大鳥純彰を旗頭とするものと撤兵頭・福田道直を中心とするものの二組である。これが千葉市と深いつながりを持つわけである。
 大鳥は伝習第一大隊と同第二大隊を率いて、その兵力約二千ないし三千といわれた(一説には二千以下ともいわれた。)。そのほとんどは市川周辺に集結した。
 一方の福田道直の軍も二千から三千といわれた(『房総叢書』の両総雑記の記録によると三千二百人と記されている。)。福田軍の大部分は舟で木更津に直行し、一部は陸路木更津に向かっている。詳しい史料がないので不明であるが、千葉市およびその周辺を通ったものと考えられる。ただ陸路直行組は、江戸から木更津まで二日間で到着しているので、かなりの強行軍であった関係上、通ったとしても素通りしたものと考えていいと思う。
 千葉市周辺の戦いであるが、一たん木更津の真里谷に集結した福田道直の義軍府は、兵力を増強するため周辺の大名などに兵の供給を要求するとともに、下働きをする人足の徴発をすすめた。
 県内の大名は、佐倉藩を除いてはほとんどが一万石から二万石の小大名であったため、下手に要求を拒否すれば攻め込まれてしまうので、多少無理をしても若千の兵力、武器、食糧の供給に応じた。
 当時一万石ていどの大名の兵力(実戦に役立つ武士)は『房総叢書』をはじめ各種の資料によると、せいぜい百人前後といわれたので、まるまる兵力を供給しても知れたものであった。慶応四年二月二十八日に生実藩から幕府へ提出した「兵力届け書」によると、次のように記されている。
 
  生実藩届書
 一、去年以来、諸国御警護向相勤不申、其外持場等無御座
 一、去卯年十二月九日以来、御警衛向相勤候儀無御座
 一、当家在家兵隊人員、左之通御座候
 一、指揮役壱人 一、司令士弐人
 一、嚮導 四人 一、押伍 壱人
 一、銃隊 三拾二人
 一、大砲一門
 一、同指揮役壱人
 一、大砲打手壱人
  右之通御座候
   二月廿八日
        森川内膳正

(『内国事務局叢書』)


 こうして陣容を強化した福田道直の義軍府側は、市原から千葉をへて船橋、市川方面にまで進出し、官軍と一戦をまじえる体制をしいた。
 千葉町は前述のように佐倉藩の所領分と四十数人(和田茂右衛門調査)の旗本の領地になっていたが、佐倉藩は大政奉還組となり、生実藩も慶応四年二月二十六日に勤王の誓書を出し、義軍府側には加担しなかった。
 しかし、当時千葉町は福田道直の義軍府の活動などによって戦乱の様相を深めて行ったことが、森川俊方生実藩主の書面で明らかにされている。
 その辺の経緯を『房総叢書』でみると慶応四年四月十六日、江戸に滞留していた森川俊方藩主は、同二十九日藩内の情勢不穏を理由に幕府に対して帰藩を申し出たところ、これを許されている。
 明治元年四月二十九日、森川俊方封境騒擾スルヲ以テ帰藩ヲ請ウ、之ヲ聴ス
とある。そのさい東海道鎮撫府総督から大要つぎのような趣旨の文書を受けとっている。「良民をあざむき、暴行など意のままに行動する兇徒は、天皇の威光をおそれない言語同断のものであるので、ことごとく捕え訴え出るべきこと、万一多人数で手に負えないときは、近隣藩と協力して撃ちとり、領民を安心させるようにせよ。」しかし、俊方が帰藩したのは、五月になってからで、千葉市の戦乱が片づいたあとになっている。恐らく福田道直の義軍府軍が市川、船橋方面に陣取っていたことと関連があるものと考えられる。
 市川、船橋の戦いは、慶応四年四月二十八日に義軍府の中山駐屯第一大隊長・江原鋳三郎(素六、のちに貴族院議員となる。)と官軍側で降伏、和平をめぐって会談が行なわれたが、話し合いは一向に進展しなかった。そこで義軍府側は閏四月三日早朝から官軍側へ攻撃をしかけてきた。
 慶応四年というのは、まだ現在の太陽暦ではなく、太陰暦を使用していたので、この年は四月が二回あって一年が一三カ月の閏年に当たっていた。
 閏四月早々から市川の中山を中心に戦端の火ぶたが切られた。以後千葉町、姉崎方面にかけて武士の動きが急に活発になっていった。それは義軍府の第二大隊が船橋に、第三大隊が姉崎にいたため、この間の連絡などがひんぱんに行われたようで、人馬の動きが急に目立ったものと思う。
 市川、船橋の戦いは一時官軍側が苦境にたたされたが、不利の報が東海総督府に入るや、直ちに増援の命令が下り、閏四月四日には薩摩藩の一隊が検見川に到着している。ついで陸路船橋入りした薩摩二隊と佐土原藩の一隊は義軍府と遭遇しないまま同じく検見川に到着したが、義軍府の兵士を一人もみかけないため同夜は検見川に宿営している。
 さらに岡山藩兵は馬加(現在の幕張)まで前進した。義軍府の兵士がなぜ後退したのか、戦記に記されていないので不明であるが、義軍府側は十分に組織化されていなかったので統制がとれず(十項目の戒律を出していたが、必ずしも守られていなかったようである。)その上、装備の差と戦意の低下は覆うべくもなかったといわれる。
 この間、東海総督府は、柳原前光副総督を鎮撫討伐使に任命するとともに、安場一平(肥後藩士、のち男爵)、渡辺清(大村藩士、のち男爵)を臨時に軍監参謀に任命し、市川から千葉町、姉崎などの平定に当たらせた。
 閏四月五日には検見川、馬加に駐在の薩摩、佐土原、岡山の各藩とも目立った動きはなかったが、六日には薩摩の一隊と佐土原の藩兵は千葉町に直進し、また検見川に駐在の薩摩の二隊と長州、岡山などの藩兵は曽我野(蘇我)へと進んだ。
 一方、大村藩兵は寒川に駐留し、一部の哨兵(警戒役の兵士)は八幡宿へと進駐した。そのさい哨兵二人が不意討ちをうけて殺害されたため戦況は、またも険悪となっていった。
 哨兵二人殺害されたとの報とともに曽我野に駐留の四藩の兵士(三藩ともいわれている。)は直ちに出撃し、寒川にいた大村藩兵も翌七日早朝一斉に義軍府の掃討に当たり(関係各藩の届書から)それまで左翼、右翼の二派に分かれていた追討軍は一本化して、福田道直の軍と村田川と養老川をはさんで激しい戦闘ののちこれを敗走させた。このさい義軍府の死者は五十数人に達している。
 この戦闘を契機に周辺は間もなく平定された。ということは閏四月十四日に千葉町など周辺の戦闘に参加した六藩(薩摩、佐土原、岡山、長州、大村、津)の兵士は江戸に帰還しているからである。ただ柳原副総督は大多喜へ進み、江戸に帰ったのは同月二十四日となっている。

5―1図 市原,八幡,養老川,姉崎の戦闘(閏4月7日)
(『戊辰役戦史』)

 千葉町では戦闘は以上のような経過であるが、町の内部で激しい戦闘が行われなかったことは町民にとって救いであった。
 しかし、郷土史研究家の和田茂右衛門氏の話によると、妙見様(千葉神社)に薩摩、佐土原などの藩兵が宿営し、周辺の民家五七軒のうち男性のいなかった三軒を除いて五四軒の男性は戦闘以外の用務に徴募されたという。また婦人ばかりの三軒の家も焚出しなどに狩り出されたという。
 したがって激しい戦火にこそ見舞われなかったが、千葉町自体としては短時日であったとはいうものの、町をあげての戦闘であり一時は緊張した空気に包まれたものと考えられる。
 この戦役で死傷したものについては武士、人足を問わず後日、政府から見舞金が出されている。